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『修証義』(しゅしょうぎ)

 修証義(しゅしょうぎ)とは、曹洞宗の開祖、道元禅師の著作である『正法眼蔵』九十五巻から二四巻を選び、特に在家への布教を念頭におき、重要な点を抜粋し、全五章、三十一節、三七○四字をもって組み合わせてにまとめたものである。

 明冶の中ごろ、各宗派では時代に適応した宗旨の宣揚をしようとする気運が高まり、曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加。東洋大学の学長で、僧籍にあったこ大内青巒(おおうちせいらん)居士(1845〜1918)がを中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行、明治以降の新時代の風潮に応じた在家への新しい布教を念頭におき作成したものである。
 これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永平寺貫首滝谷琢宗(たきやたくしゅう)禅師と大本山總持寺貫首畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師に内容の検討を依頼し、1890(明治23)年12月1日、その名を『曹洞教会修証義』とあらためて公布したのです。その後、『修証義』と改名されて今日に至る。

 修証義の題目について、簡単に説明すると「修」とは修行つまり方法のこと、「証」とは証悟、いいかえると目標のことで、「義」はこの二義についての義(ことわり=意義のこと)をまとめた物である。それは、「方法」と「目標」の「意義」を説いた聖典という意味である。何ための方法かといえば、仏になるための方法であり、どのような目標かというと、仏である、仏の証悟(おさとり)である。仏とは、真心に生きて、衆生(社会の人々)にお役に立つ人格を指す。要するに、人間はどのようにして仏になるか、逆をいえばどのような人間が仏になるかということを示していると思ってもらってよい。
 正法眼蔵は基本的に出家した者(僧)を対象にしており、出家主義である(前期の七十五巻本よりも、後期の十二巻本は顕著)。しかし、在家では禅の修業は実質困難であるので、在家で実践できる受戒などを重視してまとめ上げている。このため『正法眼蔵』(道元の主張)と『修証義』が同じとは、対象者及び目的が異なっているので、必ずとも言えない。 『修証義』から入り、『正法眼蔵』に進むことを勧める。

 現在は、教典(スートラ)と同じ位置付けがなされ、お経の代わりに読まれる場合がある。経典はどれもそうだが、釈尊の悟りの境地の説明書であって、薬の説明書だけを読んでいても、病気は治らないのと同じように、説明書を読むことは大切ですが、実物の薬を服用し(座禅をするのもひとつ)釈尊と同じ境地にいたる。
 すなわち大宇宙の森羅万象から日常に本当の生き方を求めることが、お経の功徳ではないではないだろうか。意味がわかってもわからなくても今、この時、その時一生懸命に誦むこと、ただひたすらに誦むこと誦めることに、無量の功徳・歓喜を求める。

 「曹洞宗宗憲」では『本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如・修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする』と規定。平たく言うならば、曹洞宗の宗旨は、釈尊から歴代にわたって正しくうけつがれてきた以心伝心の正伝の仏法、只管打坐(しかんたざ)、即心是仏(そくしんぜぶつ)の心を標榜(ひょうぼう)する教えで、『修証義』は、このような心を日常生活のなかでどのように実践し、信仰生活を高めていくかを示している。
 現在、修証義は、曹洞宗檀信徒だけにかかわらず、宗派を超えて広く佛教を理解しようとする人に日々多く親しまれ愛誦されている。このため、駒澤大学の学生手帳に般若心経と共に記載されている。

 「法句経」に曰く・・・。
行儀悪く、心乱れたる人の百年の生命より、徳行ありて、心静かなる人の一日の生命が勝る。
愚迷にして、心乱れたる人の百年の生命より、智慧あり、心静かなる人の一日の生命が勝る。
放逸にして、無気力に百年生きるより、勤勉精励して一日生きるが勝る。
生滅のことわりを見ず百年生きるより、生滅のことわりを見て一日生きるが勝る。
不死(涅槃)の境地を見ないで百年生きるより、不死の境地を見て一日生きるが勝る。
無上の真理を見ないで百年生きるより、無上の真理を見て一日生きるが勝る。
(資料提供:曹洞宗)

『第一章総序』

(第一節)
 生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり、生死の中に佛あれば生死なし、生死即ち涅槃と心得て、但生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。
(意訳)
 人生とはどうゆうことか、死とはどうゆうことかという人生の意義をあきらかにし、自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切なこころがけなのです。この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(サトリ)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。

(第二節)
 人身得ること難し、佛法値うこと稀なり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き佛法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。
(意訳)
 人間として生まれてくるということは、まことにふしぎなことであり、きわめて難値難遇なことなのです。まして、人間として仏の真実の教えと出会える縁は得難く希有なことなのです。けれどもいま、われわれは、自分では気づかなかった過去世からのふしぎな善縁にめぐまれて、尊いこのいのちをいただいただけでなく、あいがたい仏の教えという尊いご縁に、出会うことができました。それゆえに、生死の人生における人間としてのいのちというものは、もっともめぐまれた生涯であり、何ものにもかえがたいもっともすぐれたいのちであります。この善縁のいのちをむなしく過ごして、草の葉に宿る露のようにはかないいのちを、いたずらに吹く無常の風にまかせてしまってはならないのです。

(第三節)
 無常憑み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし、熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親ジツ(目+匿)従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。
(意訳)
 世の中は無常そのものであり、死はいつやってくるかもしれません。われわれのいのちも一寸先はわからない朝露のようないのちは、いつ無常の風に消え落ちるかわからないのです。自分のいのちは自分の意志で勝手にできるものではないのです。わたしのいのちは時の流れにながされて、いっときもとどまってはいません。また、かつての若さに輝いた顔はおもかげもないし、それはどこをさがしても、あとかたもありません。よくよく考えてみると、昔のことを思い出し過去の為したことを再現しようとしても思うようにはいきません。過ぎ去ったことは二度とふたたび戻らないものだということがわかります。まさに無常の風が突然やってくるときには、国王たる権力者であっても政治の力も、また親しい友人も忠実に働いてくれた人達でも、妻や子の力であっても、金銀財宝をもってしても、すべて何の力にもならないのです。ただ自分一人だけが黄泉(あの世)にゆくだけなのです。自分についてくるものは、自分が生存中に作った善業(よいこと)と悪行(わるいこと)の事実だけなのです。

(第四節)
 今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、毫釐もタガ(式 工→心)わざるなり、若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
(意訳)
 今、この世に生まれながら、心と行為が原因となり結果となることを知らず、善業・悪業にはその行ないの結果のあることを知らない人、また人間のいのちは過去現在未来に存続しているという意味に気づかず、善と悪を判断することがでないような間違った見方の人々に親しんではなりません。善因楽果、悪因苦果の因果業報の真理は、はっきりとしていて、人間の意志や都合でごまかすことのできない歴然たる普遍性をもつものです。悪を造るものは堕落し、善を修するものは良い報いを受けるという因果の道理には、毛すじほどのわずかなくるいもありません。
 もしも、原因と結果の関係もなく因果業報の教えがなかったならば、わざわざ仏があらわれて、苦しむ人々を救う必要はないはずです。また達磨大師が命がけで、西のインドから苦難を越えて東の中国に仏法を伝える意味はなくなってしまいます。

(第五節)
 善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、佛祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。
(意訳)
 因果業報の教えによれば善悪の行いの結果は、三通りの時節があるのです。
第一は、いますぐに影響があらわれる場合と、
第二は、しばらくたってから影響力となってくる場合と、
第三は、はるかのちになって影響力があらわれる場合とあるのです。
 これを三時の報いすなわち三時にわたる因果業報というのです。仏祖の道をこころざし修行してゆくには、この三時の業因と果報の道理をまなび実践することです。さもないと、一生懸命修行しても正しい仏法はわからないし、因果を無視するまちがったものの見方をする邪見にとらわれます。見方をまちがえるだけでなく、自己の悪業を悔いるというこころの働きも失うものであるから、救いがたい悪道におちて、ながい苦しみの報いを受けることになります。

(第六節)
 当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚く悪業を感得せん、惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。
(意訳)
 まさによく自覚し心すべきことは、この無常なる人生のいのちは、たった一つだけであり、二つも三つもないのです。人生の意義を深く考えることなく、因果の教えを信じないまちがった考えにとらわれて、迷いの悪の習慣に染まり悪業の報いを受けるのは実に惜しむべきことです。かけがえのないこの人生を惜しむべきであるのに、因果の道理を知らないために、悪業をつみながらその悪にも気づかず、悪業の報いなどあるはずがないと過った考えをしている者もいる。しかし、因果業報の教えを無視するまちがった考えをしているからといって、悪の報いを受けないですむというものではないのです。

『第二章懺悔滅罪』

(第七節)
 佛祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為めなり、人天誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。
(意訳)
 仏陀釈尊と祖師方は衆生をあわれみ救済することを念願とされ、、慈悲の教えの門を用意してくださっているのです。これはすべての衆生を、安らぎの道にひき入れ導こうとされているからです。幸いにも人間界のものや天上界のものは、誰でも、そこに入ることのできる真実世界なのです。たとえ、さきにのべた、三時にわたる悪業の報いは、どんなことがあってもにげることはできないのです。しかし、おろかさに気付いて責任をとろうと懺悔するのであれば、重い報いや責任もいさぎよく背負えるものであるし、重い罪業も懺悔の力によって軽減され、さらには、浄らかな懺悔のこころが無心無我の清浄なる身とさせてくれるものです。

(第八節)
 然あれば誠心を専らにして前佛に懺悔すべし、恁麼するとき前佛懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり、浄信一現するとき、自他同く転ぜらるるなり、其利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。
(意訳)
 滅罪清浄とは仏の慈悲ということでありますから、まず清浄無我の心をもって、お釈迦さまに懺悔すべきです。そのようにするとき、その懺悔の不思議な功徳力が自分自身をつつんで、私心のない清らかさを実現させてくださるのです。この善行の功徳力というものは、知らず知らずの間に法悦に満ちた信心を生み、たゆみない精進の力をそだててくださるのです。この浄らかな信仰心がひとたびあらわれ動きはじめると、その法悦を他の人にも教え、ともに法悦を分かち合う転回ともなるのです。その懺悔と浄信の利益は、生きとし生けるものから、山川草木の類におよんで、すべてをつつみこみ清浄なる世界をあらわしてゆくのです。

(第九節)
 其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、佛道に因りて得道せりし諸佛諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、佛祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は佛祖ならん。
(意訳)
 その釈尊の懺悔の趣旨というものは次の通りです。願わくは、自分はたとえ今までに、悪業が多くつみかさなっていて、仏の道をさまたげているような因縁におかれているとしても、仏の教えによってさとりを得られた仏さま方と祖師方には、どうかわたくしの悪業をあわれんでいただき、悪業ののくりかえしから解放させ、仏道を学ぶために障害となっているものをとりのぞかしめ、その仏祖の法門をもって、無限なる世界にみちあふれてゆきわたる大きな慈悲を私にも分かち与えてください。仏さまも祖師方も、もともとは私たちと同じ存在でありましたでしょう。仏道の因縁を得た私たちもいずれ将来は仏や祖師と同じさとりにつつまれるはずでありましょう。それ故に、どうか仏道修行をつつがなく得られますように、過去の業障を消滅せられるよう願うものであります。

(第十節)
 我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず佛祖の冥助あるなり、心念身儀発露白佛すべし、発露の力罪根をして鎖殞せしむるなり。
(意訳)
 「わたしが過去においてなしたもろもろの悪の行ないと習慣は、その始まりも知らない過去からの、貪りといかりとおろかさという三つの悪心によるものでありました。それは、わたし自身の体と口と意識の三業から生まれたものであります。」故に私は今そのおろかさのすべてを心から懺悔いたします」。このように懺悔すれば、かならず仏祖のふしぎなご加護にたすけられます。誠心いちずに念じ、体では全力で威儀を直して仏祖に礼拝し、悪業を告白し、懺悔すべきです。それによって現れる功徳力というものは、われわれの罪業の根本を滅し、浄心の修行が自我ののぼせをしずめてくれるのです。

『第三章受戒入位』

(第十一節)
 次には深く佛法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、西天東土佛祖正伝する所は恭敬佛法僧なり。
(意訳)
 つぎには仏教の三つの宝とたたえる仏陀と仏法と僧伽をよりどころとして敬うものでなければならないのです。たとえどのように生をかえ身をかえるどのような人生であろうとも、三宝を供養し敬いたてまつることを誓い願いなさい。インドでも、中国でも、仏祖が正しく伝えてきたものというものは、仏法僧をうやまいたてまつり、よりどころとすることでした。

(第十二節)
 若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや、徒らに所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或は外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く佛法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。
(意訳)
 もし不運な境遇で因果の道理も知らず、三宝を敬うことにも目覚めない、福分徳分の少ない衆生であったらば、三宝といわれても、その名前さえ聞くことはできないものなのです。ましてや、仏教に帰依し仏の道に入ることなどは及びもつかなかったにちがいありません。だからといって、いたずらに苦難をおそれ、山の神や死霊などのいかがわしいものをおがみ、あるいは異教の霊廟(オタマヤ)などに帰依してはなりません。それらの信仰によって、生老病死の人生の悩みから救われることはないでしょう。一日も早く仏法僧の三宝をよりどころとして帰依するのです。そうすれば、あらゆる苦しみから根本的に解放されるばかりではなく、真実に生きる道を成就することができるのです。

(第十三節)
 其帰依三宝とは正に浄信を専らにして、或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧、佛は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す、僧は勝友なるが故に帰依す、佛弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。
(意訳)
 その三宝に帰依するということは、ただひたすらに無我の信心、浄心になりきって、あるいは仏陀がおいでになる時代であっても、また仏陀の滅後でお会いできない時代の人々であっても、合掌し礼拝し、声を出してとなえるのです。「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」とおとなえしていくことです。
 仏は真実を示された偉大な指導者ですから帰依するのです。法は無明煩悩に迷い苦しむ身心を治すすぐれた良薬ですから帰依するのです。僧は仏道修行を成就していくための善知識であり善友でありますから帰依するのです。
 この三宝に帰依するということが仏弟子となる証なのです。在家の五戒や菩薩戒などの仏戒も、最初にかならずこの三宝帰依の戒法をうけて、そののちにいろいろの戒を守る誓いを立てるのです。ですから三宝に帰依することによって、仏教徒としての戒が身につくということなのです。

(第十四節)
 此の帰依佛法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已に証明しまします、衆生当に信受すべし。
(意訳)
 この仏法僧の三つにおまかせする帰依の善行功徳というものは、われわれの浄心(感)と仏の心(応)とが共感共鳴して実現するのです。たとえ天上・人間・地獄・餓鬼・畜生・修羅などの六道といわれる煩悩の世界にいたとしても、三宝に心が感応道交する時節には必ず帰依の心が生まれるのです。すでに帰依の心を起こした者であれば、どんな世界であろうとも、その浄らかなこころを養い育てて、さらに功徳をつんで、仏の境地に到ることになるのです。かくして、三宝帰依の功徳は、仏法においてもっとも尊く最上のものであり、人間の思いをこえた不可思議なはたらきをもっているということを仏陀世尊がすでに実証されておられるのです。ですから、われわれはこれを信じ実行する誓いを立てるべきであります。

(第十五節)
 次には応に三聚浄戒を受け奉るべし。第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒、第四不妄語戒、第五不・酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸佛の受持したまう所なり。
(意訳)
 三宝帰依の次にはまさに、三つの清浄戒を実行しなければなりません。
第一摂律儀戒、人の道を守り一切の悪事をなさないことです。
第二摂善法戒、よきことをよろこび、一切の善事を行うことです。
第三摂衆生戒、人のよろこびを、わがよろこびとし、人の苦しみを我がこととしてあらゆる衆生を救済する心のありかたです。
 三聚浄戒の次には、まさに、十ケ条の重要なきまりとも言うべき禁戒を実行しなければなりません。
第一は、殺さない。
第二は、盗まない。
第三は、道ならぬ愛欲を犯さない。
第四は、いつわりのことばを口にしない。
第五は、酒におぼれるようなことはしない。
第六は、他人のあやまちをいいふらしたりせめたりしない。
第七は、自分を誇り、他人をそしらない。
第八は、法(オシエ)も財も他に施し惜しまない。
第九は、いかりにもえて、自らを失わない。
第十は、仏・法・僧の三宝の徳を広めていくべきであるから、三宝を謗(ソシ)るということがあってはならない。
 これらの、三宝帰依、三聚浄戒と十重禁戒、あわせて十六条のこの仏戒は、あらゆる仏たちが実行されたことであり、仏教徒の条件ともいえるものです。

(第十六節)
 受戒するが如きは、三世の諸佛の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の佛果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生佛戒を受くれば即ち諸佛の位に入る、位大覚に同うし已る、真に是れ諸佛の子なりと。
(意訳)
 十六条の仏戒をお受けすると言うことは、過去・現在・未来のすべての仏が、実証せられた仏の境地をよろこぶ智慧であり、このうえなくたしかな無上のさとりを感得することなのです。ゆえに誰であっても智慧ある人は、この仏戒を受けるよろこびを求めない人、願わない人はないでありましょう。
 このことを釈尊は、梵網経のなかに次のように人々のために教えています。衆生が仏戒を受くれば、ただちに仏の清らかな世界に入る。その位とは、偉大な聖者とおなじ世界です。その時本当に、諸仏の子である、と釈尊は示されるのです。

(第十七節)
 諸佛の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆佛事を作すを以て、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の佛化に冥資せられて親き悟を顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。
(意訳)
 すべての仏さま方は常に、この仏戒(坐禅)のなかに安住されているのでありますから、どこにあっても、仏戒を実行しているとか体得しているといった分別のあとかたを残さないのです。ですから、我々の生活が仏戒を生活に生かしているといっても、その営みにこだわりのあとを残してはいけないのです。この境地に到達すれば、十方法界の土地も草木も瓦や石ころにいたるまで、あらゆるものごとは、みな仏としての在り方を示すのです。そして、それらの仏のいのちがひきおこすところの、風水などの大自然・宇宙の恩恵にあずかる人々は、みな人知をこえた不可思議な目に見えない隠れた教えに導かれて仏の境地を開くことができるようになるのです。このようにして悟りを開かれる境地を無為の功徳、無作の功徳というのです。それは無心無我のとき、はたらきだす功徳であり、自己を忘れ仏におまかせする浄心の時に仏が現成する功徳です。これこそ「無上の道心をおこし求める」ということです。

『第四章発願利生』

(第十八節)
 菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に、一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或は人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。
(意訳)
 発菩提心、すなわち菩提心をおこすということは、苦しみ悩み多き人生において、自分が仏の境地にいまだ達していないということであっても、他人をやすらぎ(彼岸)の世界にわたそうという願いをおこしその実現につとめることです。たとえ在家信者であろうとも、たとえ出家の身であろうと、あるいは天上界のような福分の多い境遇であっても、悩み多き人間的世界の境遇であっても、逆境の人であっても、順境の人であっても、まずはやく(自未得度先度佗)自らはまだ仏の境地に到達していなくともまず、他人を先に渡そうとする仏の心をおこすべきです。

(第十九節)
 其形陋しというとも、此心を発せば已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり男女を論ずること勿れ、此れ佛道極妙の法則なり。
(意訳)
 その人の外見や境遇が、いやしめられるような人であっても、この誓願をおこしているならば、すでに一切衆生を正しい教えに導く先達者であり指導者なのです。たとえ七才の幼い女子であっても、そのこころをおこしているならば、直ちに四衆(男性の僧、女性の僧、男性の仏教徒、女性の仏教徒)の指導者であり、慈悲あふれる父ともいえるのです。誓いの心を起こすに男女の区別などはないのです。これこそ仏道におけるこの上なくすぐれた法則なのです。

(第二十節)
 若し菩提心を発して後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空く過すというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、設い佛に成るべざ功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成佛得道に回向するなり、或は無量劫行いて衆生を先に度して自からは終に佛に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり。
(意訳)
 ひとたびこの菩提心をおこしてのちに、地獄、餓鬼(欲求不満の鬼神)、畜生(動物的)、修羅(争いの人々)、人間、天上(安逸の世界)などの苦渋なるどんな世界であっても、または、ほ乳類、鳥類や爬虫類、虫やかび、業によってのみ生を受けるものなどの四種の生まれ方をする輪廻転生のなかにあっても、その六道のなかに生きていることを機縁にして、かえって真実に生きる道を求める願となり行となるのです。そのゆえに、たとえ今までは人生をむなしく過ごしてきたとしても、この世の人生のおわらないうちに、いそいで菩提心を起こすべきなのです。たとえ発願してのち自らは悟りが実現するべきご縁が熟していたとしても、まず先に、一切衆生の成仏得道をたすけ、その功徳を人々にめぐらせて、同じ苦しみに悩む人々が仏と出会い道を得られるように、あるいは永遠に済度に専心して、人のよろこびを先にして苦しむ人々を悟りへ渡し、自分はついに仏にならないというように精進しているものもあるのです。まさにこの自未得度先度他の行為が菩薩の行願なのです。

(第二十一節)
 衆生を利益すというは四枚の般若あり、一者布施、二者愛語、三者利行、四者同事、是れ即ち薩タ(土+垂)の行願なり、其布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、此生他生の善種となる、一銭一草の財をも布施すべし、此世他世の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず、自からが力を頒つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ざること無し。
(意訳)
 一切衆生を救済利益するには四種の方法があります。ひとつには布施、ふたつには愛語、三つには利行、四つには同事です。これらはそのまま菩薩方の行であり誓願に基づくものです。 その布施というのは、むさぼらないということです。施すべきものが自分に無いとしても、布施の意義をそこなうものではないのです。
 例えば優しいまなざしで接する・なごやかな顔をみせる・やさしい言葉をかける・思いやりをかける・自分の体で奉仕する・人に席を譲ってあげる・自分の家を他人の為に提供するということも立派な布施の行為なのです。施すものの軽少は問題ではなく布施の心が大切なのです。それゆえに、一句一偈といったわずかな教えであっても布施すべきです。今生はもとより来世にあっても善根の種まきとなるでしょう。たった一銭であっても、たとえわずかな物であっても人の為に布施すべきです。そうすれば必ず今世にあっても来世にあっても、しわせの善根の功徳が現れてくるようになるのです。教えは法施であり財宝と思い布施すべきです、また、財を施すのに法施の心をもってするならば財も法であります。ただどちらの布施であっても相手からのおかえしをあてにしないで、自分のもてる力量に応じて布施することが大切なのです。川に渡し舟を寄付したり、橋を架けたりすることも布施なのです。社会の仕事としてあらゆる産業にはげむのも、本来布施の精神に基づくものでありますから布施にほかならないのです。

(第二十二節)
 愛語というは、衆生を見るに、先づ慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐むべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。
(意訳)
 愛語というのは、どんな人に対してもまず慈しみのこころを起こし、思いやりの言葉をかけてやることです。衆生を慈しみおもうということは、ちょうど自分の赤ちゃんをみるような気持ちをいだいて、いっときも念頭から離さず言葉をかけるのが愛語なのです。善行の人に対してはほめたたえ、さらに精進できるようにしてやるべきでしょう。善行のない人には、とがめたりしないであわれみのこころで言葉をかけるべきでしょう。自分を恨みにくんでいるような相手であっても、そのにくしみを消し去り、あるいは権力者同士を仲直りさせるにも愛語を根本とするのです。面と向かって愛語を聞けば思わず顔がほころび、こころを楽しくしてくれるのです。また人づてに愛語を伝え聞くときには、その言葉は肝に銘じ、たましいの底から感動して忘れられないものです。愛語には天下社会の重大な情勢を変える力があることをよくよく肝に銘じ学ばなくてはなりません。

(第二十三節)
 利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり、愚人謂わくは、利他を先とせば自からが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普く自他を利するなり。
(意訳)
 利行というのは、身分の上下に関係なく、誰に対しても慈愛の心をもって利他救済のよりよき手だてをはたらかせることです。晋の孔愉は、余不亭で子供にいじめられている亀を買い取って川に放してあげた。後漢の揚宝は、ふくろうにいじめられ傷ついた雀を助けてあげた。この亀や雀は後に恩返しをして孔愉も揚宝も孫の代まで栄えたということであるが、しかし窮亀や病雀を救った報酬などを求める心を考えず利行の心からなされたものであったからこそ報恩感謝が現れるのです。ただ無心に相手の為によかれとおもう心にひかされて助けてあげるのです。
 愚かな人は、人助けを先にすれば、自分は損をするにちがいないと考えてしまうが、そうではないのです。利行の道理は一つで、自分と他人を比較するような対立が無いことなのです。自他一如と言われる真実の世界なのです。自分も他人もともに利益を受けるということなのです。

(第二十四節)
 同事というは、不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり。譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、他をして自に同ぜしめて後に自をして他に同ぜしむる道理あるべし、自他は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海なるなり。
(意訳)
 同事というのは、自他が違わない、自他の区別をたてないことです。つまり、喜びも悲しみもともに分かち合って違わないことです。たとえばさとりの世界を実現された釈迦牟尼世尊は、人間と同じ形で人間に同ずることによって衆生を救済される。相手を自分と同じようにさせておいて、その後、自分を他人と同じようにさせるという境地というのは、まさに、「入我我入」なのです。如来が我に入って相応じ、我が如来に入って違うことなく相応じるという道理です。自分と相手の関係というものは、その時と立場に応じて無限のかかわりがあるのです。あたかも海が、あらゆる河の水をうけ入れているのも同事の有り様です。河の水は大海に入れば海の水の諸徳を現じるのです。河の水はよく集まりて大海というすばらしい世界を作りうるのです。

(第二十五節)
 大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。
(意訳)
 およそ菩提心の行と願というものは、このような教えというものがあるのですから、よくよく落ち着いて考え心してゆかねばなりません。決しておろそかにしないで精進すべきなのです。衆生を救い衆生をひきうける菩提心の善行によって、一切衆生は大いなる恩恵をこうむるのであるから、それに対してつつしんで礼拝しうやまうべきであります。

『第五章行持報恩』

(第二十六節)
 此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼佛を喜ばざらんや。
(意訳)
 この発菩提心というものは、人間世界の境遇にあってもなかなか容易にできるものではないのです。多くは須弥山(シュミセン)の南方、閻浮州の人間の身においてこそ発心できるのです。我々はいまかくの如きご縁で、菩提心を発すべき深い因縁があって、この人間世界に生をうけたのです。そのお陰で釈迦牟尼仏に相まみえ、釈迦牟尼仏の教えをきくことができるご縁となったのです。この因縁というものは、何にもかえがたい恵みであるということでありますから、なんで喜ばずにいられるでしょうか。

(第二十七節)
 静かに憶うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、佛の言わく、無上菩提を演説する師に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行を考うること莫れ、但般若を尊重するが故に、日日三時に礼拝し、恭敬して、更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。
(意訳)
 正法にであえた因縁を心をしずめて、思いめぐらしてみなさい。釈尊の正しい教えが、正しく伝授されたからこそ我々は仏法に遇い感得することもできるのであるが、正法が世間にひろまっていないときには、わが身わがいのちを正しい教えの為に投げ捨てようと誓っても、その機会に出会うことはできないのです。ですから正法に逢うことのできた、今日の我々のご縁をこそ願いよろこぶべきなのです。
しっかり認識しておかなければならないことがあります。正法を願い仏道を成ぜんがために仏は次のように示されるのです。真実のこのうえなき教えを説きのべる人に出会ったときには師の生まれをせんさくしてはいけません。顔かたちや容貌を気にしてはいけません。欠点やくせをきらってはいけません。過去の行いを批判してはいけません。菩薩といえども、始めから完全無欠であったわけではないのですから、仏法を聞くときには、ただ、真実の智慧を尊重していくことによってさとりと出会えるのです。日々の朝昼晩に、礼拝し、煩悩のこころをおこしてはなりません。

(第二十八節)
 今の見佛聞法は佛祖面面の行持より来れる慈恩なり、佛祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝すべし、况や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀尚お恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚お恩を忘れず、余不の印能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。
(意訳)
 今日の我々が仏に出会い教えをきくことができるのは、いままで仏や祖師方が身命をかけて伝授され護持されてきた慈悲のおかげです。真実の仏法をひとえに仏祖方が単伝しなかったならば、どうして今日まで伝わることができたであろうか。それ故に、たった一句の教えでさえも、その因縁のめぐみに感謝すべきであり、たった一つの法の教えにさえも、そのめぐみをよろこび報いるべきです。
ましてや、正法眼蔵という最高の教えを伝えていただいた大いなるご恩に感謝し、報いなければなりません。中国の故事にある、揚宝に助けられた雀はその恩を忘れず、四つの環(ワ)を贈って、揚宝家が四代にわたり三公(政府の要職)の位についたという恩返しがあるのです。孔愉に助けられた亀も恩を忘れずに、孔愉が余不亭(ヨフテイ)の知事になったとき、印鑑のつまみ飾りの亀の首が傾き、三度印鑑を造り直させたがやはりかたむき、孔愉はあとでそのわけを知り傾いたままの印を使用したという。動物でさえ恩を感じ、恩に報いるのですから、まして人間としてその恩義を知らずにいられようか。

(第二十九節)
 其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費さざらんと行持するなり。
(意訳)
 この報恩の正道を他の教えで示すことはできないのです。この大恩に報いる方法というのは、ただまさに一日一日の仏道修行をおこたらず、日々の生活の上に行持をいたしていくことが正法のご恩に報いる正道なのです。その報謝の道理というのは、一日一日のいのちをおろそかに過ごすことなく、自分だけのために生活するのではなく、浄心精進の仏道を行い保つ生活をすべきなのです。

(第三十節)
 光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲むべき形骸なり、設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の他生をも度取すべざなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸佛の行持見成し、諸佛の大道通達するなり、然あれば即ち一日の行持是れ諸佛の種子なり、諸佛の行持なり。
(意訳)
 月日の経つのは矢よりもすみやかであり、人のいのちは草の葉に宿る露よりもはかなくもろいものです。どのような巧みな手段をめぐらしたからといっても、過ぎさってしまった一日をとり返すことは絶対にできません。それゆえに、真実の道を知ることなく百歳ほど長生きしたところで、後悔ばかりの月日に過ぎず、悲しむべき肉体というべきでしょう。しかしながら、たとえ百歳の月日は、妄想のおもむくままに刺激されて、欲望の奴隷となって走り回るあわただしい人生だったとしても、その中のたった一日だけでも、無常の世に目覚め、仏の行いを為すならば、百歳の人生も正しい教えにつつまれてゆくばかりか、次の生の百年も正しい教えにつらなり救われることになる。この一日のいのちというのは、まことにかけがえのない尊いいのちです。うやまい尊重すべき身命です。この仏としての修行ができる身命は、自分自身でも大切に敬うべきです。これはまさに、我々が仏の道を正しく実行することによって、仏を出生せしめることとなり、仏法の大道があらゆるところにはたらきめぐるということです。ここに、我々のこの一日の仏としての修行は、そのまま諸仏の種まきであり、諸仏としての修行の生活でありますから、諸仏との自他一如の仏道となるのです。

(第三十一節)
 謂ゆる諸佛とは釈迦牟尼佛なり、釈迦牟尼佛是れ即心是佛なり、過去現在未来の諸佛、共に佛と成る時は必ず釈迦牟尼佛と成るなり、是れ即心是佛なり、即心是佛というは誰というぞと審細に参究すべし、正に佛恩を報ずるにてあらん。
(意訳)
 今まで述べた諸仏とは、釈迦牟尼仏のことであります。 釈迦牟尼仏とは、2500年前のインドで覚られ仏陀となられた歴史上の人物と考えるのはまちがいで、釈尊のさとりとは、生きている自分自身の純粋ないのちとこころそのものです。過去、現在、未来にも、諸仏がさとられ仏になるときには、みな釈迦牟尼仏となられるのです。これが即心是仏(ソノママノ心コレ仏)という仏であります。このそのままの心是仏という仏とはいったい誰のことをいうのであろうか。ねんごろに真摯に実参実究することです。たゆみない浄心精進の行持こそが、仏恩に報いることとなり、仏の道となっていくのです。

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