2007/11/23(祝)
11/23勤労感謝の日・新嘗祭
【勤労感謝の日】
勤労感謝の日は、戦後国民の祝日が定められた際に「勤労をとうとび、生産の豊かなことを祝い、国民が互いに感謝しあう日」という趣旨にて昭和23年(1948年)に制定されました。この11月23日は新嘗祭を意識して定められたものです。
【新嘗祭】
新嘗祭(にいなめさい)は、太古の昔から日本国家の重要な行事であり「瑞穂(みずほ)の国」の祭祀を司る最高責任者である大王(おおきみ=天皇)が国民を代表して、天地の神々に農作物の恵みに感謝する儀式です。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことをいいます。
律令制度のもとでは、季秋(9月)11日に神嘗祭(かんなめのまつり)を祭行し、仲冬(11月)の最初の卯の日に相嘗祭(あいなめのまつり)を祭行しました。そして二番目の卯の日に、新嘗祭(にいなめのまつり)を祭行することになっていました。
宮中の作法や伝統を今に伝える「有職故實」(ゆうそくこじ)には、「新嘗祭は、宮中の祭儀の中でもっとも重要であり、天皇自らがこれを親しく執り行うについて、御魂を安んじ鎮め奉って、鎮魂祭は古代の風をそのまま伝える儀式」とあります。
新嘗祭のうち、新しく天皇が即位して最初に祭行するものを特に「大嘗祭(おおなめのまつり)」といい、これが実質的にその天皇の即位を決定つける大規模な祭儀となっています。現在の歴史の研究では、践祚(せんそ)の儀を行っても金銭的な事由から「大嘗祭(おおなめのまつり)」を行わないで即位した天皇も多く、特に室町・戦国時代に朝廷の権力が衰退した時期です。
江戸時代には徳川幕府の庇護のもと、儀礼の復活をはたしましたが、純粋な神道での大嘗祭や新嘗祭ではなく、真言宗の「即位灌頂(そくいかんじょう)」や陰陽道の「天゙地府祭(てんちゅうちふさい)」と混合したものが主流で、神道での大嘗祭や新嘗祭は明治新政府になってからです。
ちなみに神嘗祭は、「かんなめさい」 「かんなめのまつり」 「かんにえのまつり」 「しんじょうさい」などと呼ばれ、皇室の大祭のひとつです。
10月17日に行われ、天皇がその年にとれた新しい米を伊勢神宮に奉るという祭儀で戦前は国の祭日でしたが、現在は宮中でのみ行われています。
では、新嘗祭がいつ頃から行われていたのかははっきりしませんが、日本書紀では、皇極天皇元年(642)の11月16日に新嘗祭の記述があります。
この日は西暦では642年12月12日で干支は丁卯にあたり、既にこの時代には新嘗祭は11月の第二卯日です。
基本的に公式の暦は中国から伝来しました。
立春から始めるということになってはいても、実はここに農耕民族最大の祭典である新嘗祭をほぼ冬至に行うということで、1年を冬至から始めていたわけで、新嘗祭はつまり本当は新年の祭りであり、だからこそ大規模な式典が行われ、天皇にとっても重要な儀式であったのです。
本来の新嘗祭は、新嘗祭の前日には鎮魂祭(たましずめのまつり)が行われ、翌日の新嘗祭当日は百官群臣が小忌衣を着用して参集し豊明節会(とよあかりのせちえ)が行われ、各氏族の自慢の娘たちによる五節舞(ごせちのまい)が舞われました。むろんその中で大王(天皇)が留めた姫はそのまま入内する意味も兼ねていたようです。
また日本は狩猟民族というよりは、農耕民族であることから、農作物の育成と自然循環サイクルの観点から、太陽信仰も相俟って、春は「再生」や「新生」・「誕生」を冬は「死」・「眠り」を意味したことから天皇の魂を復活・再生させる意味もあったのです。
この太陽信仰の「再生」や「新生」・「誕生」を具現化した祭りに「伊勢神宮式年遷宮」があり、20年に一度、御神体以外の鎮座地・諸社殿をはじめとした神殿から調度品など細部に至まですべて新しくなるのです。
新嘗祭の前日に祭行される鎮魂祭には、「十種神宝」の「魂振」神事が行われます。
一般的には鎮魂というと「みまかった霊魂を弔い安らかに導く」意味が主流ですが、前述ですと全くの逆となるのです。
簡単ですが、「有職故實」にある新嘗祭を垣間見ます。
◇新嘗祭に先立って、10日には伊勢神宮に奉る幣帛が送られます。新嘗祭前日の22日には、宮中の綾綺殿で「鎮魂祭」が行われます。
◇鎮魂祭
鎮魂祭では、「八柱神(やはしらのかみ)」と呼ばれる次の神々ならびに「大直日神(おおなおびのかみ)」1柱を加えて祀ります。
・神産日神(かみむすびのかみ)
・高御産日神(たかむすびのかみ)
・玉積産日神(たまつみむすびのかみ)
・生産日神(いくむすびのかみ)
・足産日神(たるむすびかみ)
・大宮売神(おおみやめのかみ)
・御食津神(みけつかみ)
・事代主神(ことしろぬしのかみ)
これらの神々は、古く朝廷の神祇官という役所に祀られていたのに由来し、歴代天皇の守護の神々として尊崇されてきました。現在は宮中三殿のうち東に位置する「神殿」に祀られています。
また「大直日神」は「大直昆神」とも書き、「神直日神」とも呼ばれて、よろずの凶事を吉事に転ずる霊徳の神とされてます。8神で一前、大直日神でさらに一前となります。
◇神楽歌・供え物・御衣と御玉緒の渡御
鎮魂祭ではまず神楽歌として「安知女(あちめ)」の曲が奏されます。その間に「八代物(やしろもの)」別名「八色幣(やいろのみてぐら)を供えます。
太刀1口・弓1張・箭1双(2本)・鈴20口・佐奈伎(さなぎ・鐸=鈴の一種)20口・あしぎぬ1疋・木綿5斤・麻10斤。また続いて、次の神饌も供えます。
・神酒・飯・餅・海の魚・川の魚・鳥・鰒・海菜・野菜・果・塩・水
神饌には、私たち人間が全く手を加えない「生饌」と調理・加工した「熟饌」とに分けられます。
その後、掌典長が祝詞を奏上して掖座に控え、掌典が「糸結びの座」に着き、別の掌典が「御衣」と「御玉の緒」の筥を捧持して渡御のことがあって、斎場の案上(机の上)に安置します。
掌典長は「八開手(やひらで)」という8回の拍手(かしわで)を4回繰り返し、計32回の拍手を打ちます。
◇糸結びに儀
続いて掌典補が斎場前後の御幌(おとばり)を垂れ下ろし、その中で伏せた「宇気槽(うけふね) 」に内掌典(女官)が昇ります。「宇気槽」とは桶と盥の同等のものです。
内掌典は桙を持って、これで宇気槽の底を突きながら「ひ・ふ・み・や・い・む・な・や・こ・たりや」と唱えて数をよみます。最後の「たりや」は「とをありや(十有りや)」のことです。
これにあわせてその度ごとに、掌典が「御玉の緒」という糸を結び、10回に達したら柳筥(やないばこ)に納めます。その後、掌典補は幌を揚げます。
糸結びの儀で内掌典が宇気槽を桙で突くのは、天照大御神の岩戸隠れのときに、天宇受売命(あめのうずめのみこと=天鈿女命)が槽に昇り茅巻(ちまき)の矛でたたきはやしながら踊ったという故事にならってのことです。古くは天宇受売命の子孫である猿女君(さるめのきみ)の出身の女性が御巫(みかなぎ)として奉仕したと伝えられています。
◇御衣振動の儀
掌典補が幌を揚げると、掌典長が進み出て御衣筥(みそはこ)を執り、蓋を開いて神前に向かって、これを10回振り動かしてから、もとのところに安置します。陛下のお召し物の振り糸を結ぶ儀式は、『旧事記』や『神皇正統記』にその起源との記事があります。
これは、物部氏の祖・宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が神武天皇の十種(とくさ)の瑞宝を献上して、この宝をゆらゆらと振り動かせば起死回生すると、天神のことばがあった旨を奏上したという故事です。さらに、御衣(みぞ)・御玉の緒は神殿に入御し、続いて皇后の御衣・御玉の緒の渡御があって、天皇の御衣・御玉の緒と同様の儀式が行われます。また、儀式の終わった後には大直歌・倭舞があります。
なお一説には、この究極の奥義である鎮魂祭を独占していた伯家神道に伝えられた祝(ハフリ)の神事にまつわる逸話に『伯家に伝えられた祝(ハフリ)の神事を授けられない天皇の御世が三代・百年続けて祭行しないと、国が滅ぶ』と伝えられています。
「祝(ハフリ)の神事」とは伯家神道が代々の天皇に伝授する即位祭儀のことです。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位したのが1912年であります。
伯家神道は、明治維新まで八百年以上にわたり、古神道のなかで最も由緒正しいものとされ、代々神祗伯を継承してきた白川伯王家に伝承されてきた古神道で、白川伯王家は宮中祭祀を司ってきた家柄です。その祭儀は、宮中の奥深いところで「天皇のための儀規」として行われていたこともあって一般的には今でも知られることがありません。とくに、明治維新にともない伯王家本家が廃止されたため、その祭儀はほとんど埋没してしまいました。宮中神道でいうならば、祝(ハフリ)の神事の奥義である鎮魂祭は天皇が日本に、神霊力を降臨させて加護をいただいた「神籠(ヒモロギ=依り代)」になる儀式です。その依り代になる儀式が大嘗祭であり、それを司ったのが伯家神道なのです。
11月23日の新嘗祭。
◇式場
新嘗祭は、宮中の神嘉殿(しんかでん)で執り行われます。「神嘉殿」の名は平安京大内裏の中和院の正殿に由来し、もともと天皇が天神地祇(てんじんちぎ=国家や土地の神)に対する祭祀を行ったところです。現在の神嘉殿は、宮中三殿のうち皇霊殿に続く殿舎です。
「宮中三殿」とは、皇居内に置かれた三宮殿で、中央に「温明殿(うんめいでん)」、東側に「神殿」、西側に「皇霊殿(こうれいでん)」があり、「温明殿」は伊勢神宮の神体である神鏡の御分霊が安置されて一般には「賢所」の名で通っています。古くは「かしこどころ」と称しましたが、近年では「けんしょ」と言うこともあります。
古文では「内侍所(ないしどころ)」とも呼ばれますが、これは往時は内侍という女官が常に賢所の侍っていたことに由来します。
「神殿」は前述の「鎮魂祭」の祭神八柱神が祀られているところであり、また「皇霊殿」は歴代天皇皇后皇族の御霊を祀るところです。新嘗祭の式場「神嘉殿」は、皇霊殿のさらに西側に、南面して建てられています。
◇調度・着御
当時の儀式は午後2時に神嘉殿を装飾し、その中に神座を設けます。夜になって、忌火の御燈として「庭燎(にわび)」を焚きます。
掌典長の祝詞のあと、天皇の渡御の際しては「御斎服(おんさいふく)」のお姿です。これは生糸で織り立てたままの純白の御装束で、もっとも清浄なお姿とされます。御冠は「御さくの冠」といって、巾子(こじ)の上からかぶせるように纓をたたみかけて白絹で巻き結び留めます。
行列は侍従長・式部長が先行し、天皇には侍従が剣璽を捧持します。また侍従2名が燭を持ちます。燭は明かりで、「脂燭(しそく)」とも言って、松を長さ2尺ほどに細かく割ったものを束ね、油を塗って灯をともす松明のことです。神嘉殿手前の隔殿に着御となって、神饌の行立があります。
◇神饌の行立
新嘗祭の神饌は、御飯・御粥・鮮物・干物・果子・和布汁漬・鮑汁漬・和布羹・鮑羹・御白酒・御黒酒・御黒酒・御直会酒などです。
行立はおよそ次のようになります。
掌典補1名 燭
掌典1名 削木
同1名 海老鰭槽(えびはたふね)
同1名 多志良加(たしらか)
陪膳采女1名 御楊枝筥(おんやないばこ)
後取采女1名 御巾筥(おんたなごいばこ)
采女1名 神食薦(かみのけごも)
同1名 御食薦(みけごも)
同1名 御箸筥(おんはしばこ)
同1名 御枚手筥(おんひらてばこ)
掌典1名 御飯筥(おんいいのはこ)
同1名 鮮物筥(なまものばこ)
掌典補1名 干物筥(からものばこ)
同1名 御果子筥
同1名 海菜汁漬(めのしるつけ)
同1名 鮑汁漬(あわびのしるつけ)
同2名 羹八足机(あつもののやあしのつくえ)
同2名 御酒八足机(みきのやあしのつくえ)
同2名 御粥八足机(おんかゆのやあしのつくえ)
同2名 御直会酒八足机(女おらいのみきのやあしのつくえ)
「燭」は前述のとおり松明、「削木」は杖です。
「多志良加」は御手水にお使いなる水を入れる壺で、その水を受けるのに用いる両手のついた盥が「海老鰭槽」です。
「御巾筥」には御手水のあとにお使いの手拭いを納めます。
「神食(かみのけ)」はお供えする神饌、「御食」はそれと同様のもので天皇が召し上がる分です。
「枚手(ひらで)」は柏の葉を合わせて竹の針で留めて作る平たい器で、神饌を盛るのに用います。
「空盞(こうさん)」はお酒を召し上がる盃のことです。そのお酒は、「白酒(しろき)」と「黒酒(くろき)」とが供ええられます。白酒は「醴酒」とも呼ばれる甘酒で、黒酒は擦った黒ゴマをこれに溶いたものです。
◇儀式
神楽歌の間に天皇は神嘉殿の御座に着御あります。式部長・掌典長は東の隔殿の座に控えます。天皇は御手水のあと陪膳・後取(しんどり)の采女らの介錯によって神饌を神々にみずからお供えになり、御告文(ごこうもん)の奏上があります。
その文言は、
『伊勢の五十鈴の川のほとりにおはします天照大神天神地祇の諸の神たちに申して白さく われ諸神の広き護りによりて国のうち平らかに年穀豊かにして貴き卑しきを覆へ諸の民を救はむ 因りてことし新たに得たるところのにひものを奉る また身のうへ犯すべき禍をはらひ除きて性なく悪しきこと侵しきたることなからむ また高き山 深き谷 ところどころの名を記してまじなへまつらむものみな悉くに消し亡ぼさんこと 天神地祇の厚き護りを蒙りて致すべきものなり』
と言われています。
御告文奏上のあと、天皇も新穀の御膳(おもの)を召し上がり、お祭りがすんで還御となります。また、午前1時より暁の御儀が上記と同様に執り行われます。賢所・皇霊殿・神殿の新嘗祭は、上記のような式次第が内掌典によって代行されます。
「五節舞」という名前は、その舞の見事さに天の貴人たちが見物に降りてきて、その様がまた慶ばしいこので、その天女たちを大王(天皇)が五度見上げた、ということから名前が付いています。通常の新嘗祭では舞姫は4人、大嘗祭の時だけは5人で、いづれも卯日をはさんで2日前の丑日から翌日の辰日まで4日間行われました。
現在は新暦に移行したため、伊勢神宮では10月の15〜25日に神嘗祭、11月23日に新嘗祭を実施しています。宮中では10月17日が神嘗祭、11月23日が新嘗祭です。
昔はその年の新米は新嘗祭が終わるまでは誰も食べないのが習慣でしたが太陰暦の11月の第二卯日というと太陽暦で見ればこれはちょうど冬至頃に相当します。
この新嘗祭関連の民俗行事も各地に残っています。
英語で表現するなら、「勤労感謝の日」はLabor Dayに相当しますが「新嘗祭・神嘗祭」ならThanks Giving Dayに相当するでしょう。
参考資料
蝦夷国桃園山田家伝・霊元天皇御即位記
蝦夷国桃園山田家伝・東山天皇大嘗祭記
蝦夷国桃園山田家伝・宮中新儀式抄
御照大権現神道儀規
御照大権現「伯家家伝抄」
2007/11/15(木)
招き猫。。豪徳寺
小田急線の豪徳寺駅からは少し歩きますが、行って来ました、豪徳寺。
(招き猫の由来)
右手を挙げている招き猫は「金運」、左手を挙げている招き猫は「客人」招くと言われています。
三毛猫の招き猫が良く見られる形ですが、「風水」の影響もあって、白や赤などの伝統的な色のほかに、黒色・ピンク・青・金色もよく見かけられます。
その色によってご利益が違って、「学業成就」と「交通安全」は青。
「良縁成就恋愛」はピンク。
黒色は、「夜でも目が見える」という由来から、特に『福猫』として「魔除け」や「厄除け」。
赤色は、皮膚病や流行病を遠ざける色ととして「病除け」「災難除け」、などと色によってそれぞれの意味を持ちます。
では、その「招き猫」はどうして縁起物になったのかというと、
日本は古来から農業と養蚕を多くの土地で生業として行っていました。
農作物や養蚕を荒らし害となる「鼠」を追いかける猫を、農業や養蚕繁栄のシンボルとして縁起物となったようです。
その後、農業や養蚕産業の衰退に伴って、金運を招く「商売繁昌」の願いを込めた縁起物へと変化します。
一方で、客人を招く由来は、曹洞宗大渓山豪徳寺がその有力な起源となっています。
時を遡ること江戸時代、関が原の合戦で「井伊の一本槍」で名を天下に轟かせた彦根藩二代藩主・井伊直孝公が幕府から拝領した世田谷領での鷹狩の折り、旧世田谷城(せたがやじょう)の北に位置する豪徳寺の付近を通り過ぎようとした時、山門のそばにいた三毛猫が直孝公を手招きしていたのです。
その瞬間に雨が降りはじめ、止む気配どころかさらに大雨となって、直孝公は足止めをくらったのです。
それでも三毛猫は手招きする仕草をしていたのを見た直孝公は、山門をくぐり境内に誘われ入ると、すぐに先ほどまで雨宿りしていた大木に雷が落ち、しばし雨が止むまで豪徳寺方丈(住職)との法談をして世話になったことで難を逃れたのです。
この縁を大変重く大切にしたいと、夜叉掃部(やしゃかもん)と幕府内では恐れられていた直孝公が江戸菩提寺として諸伽藍を整備し、それまで寺勢貧窮していた豪徳寺が大寺となったのです。
豪徳寺の招き猫伝説はあまり有名ではありませんが、この豪徳寺逸話の元になった話しが中国の故事、唐代九世紀(860年頃)に成立した『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』にあります。 「猫洗面過耳。則客至。(猫面を洗ひて耳を過れば、すなわち客いたる。」
この故事は、招き猫の謂れについて書く時には必ず登場する故事です。
似たような諺として、フィリピンでは「ネコが海に向かって顔を洗うときは漁の好機」といわれるそうです。
招き猫には、瀬戸物といわれる陶器製や、群馬県で有名な「ダルマ」と同じ製法である張子などが多くあります。
地方によっては神様のお使いとして「招き猫」を扱っているようです。
近年では、癒し系ブームの代表格「たれパンダ」人気にあやかって、ちょっと体型がゆるい感じの招き猫も登場しているようです。
(参考資料・資料協力)
・曹洞宗大渓山弘徳院豪徳禅寺縁起
曹洞宗大渓山豪徳禅寺(東京都世田谷区豪徳寺2-24-7)
・各種縁起物卸・販売
縁起問屋宇賀福屋http://www.ugafukuya.com/(東京都調布市下石原2-17-11)
2007/11/07(水)
坐禅のすすめ
今回は、ヨガの「瞑想法」(めいそうほう)として有名な「坐禅」(ざぜん)を取り上げます。
■坐禅とは
釈迦が悟りを開いた、12月8日早朝の姿が原型です。
インド・ネパールで体系化した禅は、ダルマさんで有名な菩提達磨(ぼだいばるま)大師によって中国に伝わりました。時の中国は梁の皇帝・武帝から庇護を受けてより大いに禅は発展し、中国では五家(臨済宗・為仰宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)七宗(五家と臨済宗から分かれた黄龍派・楊岐派)といわれるほどの大きなブームを形成します。
中国で禅のブームを迎えている時に、日本で初めて本格的に禅を伝えたのは日本臨済宗開祖の栄西(えいさい)禅師です。当初、曹洞宗を開祖した道元(どうげん)禅師は、栄西禅師及び栄西禅師の高弟・明全禅師を師事し、臨済禅を学んでいたのですが、栄西禅師が死去すると明全禅師とともに中国に渡り曹洞禅と出会い日本に伝えます。なお、黄檗宗(おうばくしゅう)は更に時代が新しく、江戸時代になってインゲン豆を伝えたことで有名な隠元隆埼(いんげんりゅうき)禅師になります。
国内では、この鎌倉仏教は旧教団である奈良を中心とした「南都仏教」、平安時代の京都を中心とした真言宗・天台宗教団の阻害や迫害に遭いながらも時代的な背景と相まって、日本の武家社会に受け入れられて武家文化と武道を禅と融合させたのです。
その結果、臨済宗は京都五山(建仁寺派・大徳寺派・妙心寺派・南禅寺派・東福寺派・方広寺派・天龍寺派・相国寺派)と鎌倉五山(建長寺派・永源寺派・仏通寺派・円覚寺派・国泰寺派・向嶽寺派)を形成し、曹洞宗は永平寺派と総持寺派が形成しました。
その永平寺派においても、永平寺三世の義介派や順徳天皇の第三皇子の寒巌法皇派・寂円禅師の宝慶寺派などがあり、総持寺派では瑩山禅師の高弟・峨山派・瑩山禅師の隠居寺永光寺の二世明峰派、総持寺派二世峨山のあとは五院輪番制を用いたことから、五院の諸派は曹洞禅の禅風を大いにふるいました。
坐禅も次第に実践修行から学問色が強くなり衰微するも、江戸時代のキリスト教の禁止(禁教)による住民の戸籍管理と宗教政策「寺請制度」(てらうけせいど)によって、信徒は拡大しました。
徳川幕府の政策のもとに学僧は多くなりましたが、坐禅を根本とす「師家」(しけ)がこの頃から少なくなったといえます。
明治・大正・昭和初期までは、国家神道政策や廃仏政策の影響から廃寺も多くなり、戦後は宗教法人法の管理下政策や現世利益や不思議力を大きく謳った新興宗教の台頭も目ざましく衰微します。
しかしこの坐禅は、20年前に「第一次坐禅ブーム」がおこり現在に至っていますが、その人気は未だに衰えることなく、フィットネスクラブなどでも「ヨガ」「ハタヨガ」「パワーヨガ」として若い女性に評判です。
またアメリカやヨーロッパでは、多くのキリスト教から改宗した人々と、海外に移住した日本人の総意から禅宗寺院が建立され英語の単語としての「ZEN」が確立したのです。
ことに、上流階級や有名スポーツ選手が坐禅を基本とする呼吸法とヨガの中のコア及び姿勢矯正トレーニングの要素が強い「Pilates」(ピラティス)(詳細はhttp://npo-jipa.org) といわれるエクササイズが大変なブームとなっています。
ここ近年の日本では、フィットネスクラブでの「ZEN」や都会(都市近郊)に所在する寺院で行われる参禅会よりも、少し足を伸ばして清閑な自然の多い地方寺院へ赴き、精進料理が付いた坐禅会などに人気が集中しています。
坐禅には、「黙照禅」(もくしょうぜん)と「看話禅」(かんなぜん)といわれる二流儀があります。
「黙照禅」は曹洞宗に代表される、「ただ、ひたすらに(黙々として)坐る」といった個を重んじ、自己修練タイプの坐禅です。
それに対して、臨済宗・黄檗宗での「看話禅」は、人々と相対して公案(問答)を繰り返し、研究することで悟りを得る坐禅です。
また、警策(きょうさく。坐禅の最中、姿勢が悪くなったり・落ち着かない参禅者に対して注意を促す棒)の打ち方は、「黙照禅」は自己探求型とも言え、参禅者本人が気が付くように一打で済むのに対して、「看話禅」は複数回打つのです。
特に有名なのは、中曽根康弘元内閣総理大臣が現職時代から、都内の禅苑に通われ参禅に勤しんでおられるのです。(現在でも都内のスポーツクラブにて休み休みではあっても、プールで1000Mの水泳も月に数回行われているそうです。)
■坐禅のこころ
坐禅とは、坐る禅ということで、元々は梵語の「ゼンナ」という言葉を音写して禅にあてはめたのです。
意味の上では、「定」(じょう)とか「静慮」(じょうりょ)や「思惟修」(しいしゅう)などに訳されています。いうならば、物事の真実の姿やあり方を見極めて、これらに正しく対応していく「心」の働きを整えることを意味しています。
そのためには、心を一点に集中させなければなりません。物事や事案の眼に見える表面的な姿や形にばかりに執着して、好き嫌いや善悪などの主観的な意思という心の動きのみでは、本当の真実の姿や形は見ることができないのです。これは、単に自己から見たものばかりではなく、自己というものをも客観的に垣間見ることが可能になるのです。
仏道をならふといふは 自己をならふなりこのように、現実世界においての心の活動を一切停止して、一ヶ処・一事にのみ集中することを、『思量箇不思量底(しりょうこふしりょうてい) 不思量底如何思量(ふしりょうていにょがしりょう) 非思量(ひしりょう)』といいます。
自己をならふといふは 自己をわするるなり
自己をわするるというは 万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは 自己の身心
および侘己の身心をして 脱落せしむるなり
※『正法眼蔵 現成公安』より抜粋
また、「三昧」(ざんまい)ともいい、一般には「無念無想」(むねんむそう=なにも思うことなく考えることのない境地)といっています。
このように、環境の事象に執着することなく、ありのまま(真実)のあり方を見極めたり対処していくことを「解脱」(げだつ)とも言っています。執着から離れた解脱の道を体得して体解することが、「禅」の真義であります。
この坐禅を最も簡単に行う基本を「端座(たんざ)」なのです。
道元禅師の言葉に「参禅(さんぜん=仏道及び人生の修行をしようと思う者)は坐禅なり」とお諭しくだされました。坐禅が大切な意義と意味を強く強調されているゆえんがあるのです。曹洞宗では、普勧坐禅儀及び、正法眼蔵坐禅儀を重宝としており、特に、普勧坐禅儀は坐禅中に読むことを常としています。
■坐禅の効果
坐禅では、「調身・調息・調心」(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)を教えています。
両膝、尻による三角形の「土台」により体を安定させ、背筋を伸ばし呼吸を整えます。
深く長く息を吸いお腹の筋肉を使って横隔膜を下に押しやる、そしてゆっくりと細く長く息を吐く。これを繰り返し続けることにより、呼吸がリズムに乗りますと自然に心が落ちついてきます。
腹式呼吸を実践して若さと美しさを保っている女優に、水戸黄門で有名な由美かおるさんがおります。
このリズミカルな呼吸法の継続が、感覚神経を鍛え、セロトニンの働きを活性化するからです。
神経伝達物質の一つであるセロトニンが、体の動きや感情をコントロールしてくれるのです。
【セロトニン】5-hydroxvtryptamine(ヒドロキシトリプタミン)現在の生活環境や仕事の環境が、セロトニンの減少を促進させ精神的な安定がそこなわれます。その継続がストレスを招いたり、感情の調節ができなくなり「依存症」になったりキレたりする原因にもなるのです。
必須アミノ酸であるトリプトファンの代謝過程で生成される、脳内神経伝達物質のひとつ。神経伝達物質であるドーパミン(快感を伝達)やノルアドレナリン(恐怖を伝達)などをコントロールし精神を安定させることから、「元気の素」とも言われている。セロトニンが不足すると感情にブレーキがかかりにくくなるため、快楽から抜け出せずに依存症に陥ったり、うつ病になりやすいなどといった指摘がある。
自律神経失調症や肩こり・便秘も、セロトニンの不足と関係あると言われています。セロトニン活性効果は男女を問わず、感情や生理的コンディションを整え人の容貌まで好ましい状態形成してくれるのです。
心と体の美しさは、化粧や服装ではまく、「急がば回れ」で「坐禅」により体と心の中から美しくなりましょう。
なお、近年の研究・臨床実験では、ホルモン異常による月経不順・更年期障害の緩和のほかに、不眠症の改善効果も報告されています。
■坐禅の作法
1、合掌(がっしょう)
相手に尊敬の気持ちをあらわすことです。両手の掌を合わせて、腕を胸襟に近づけず臂を脇の下から離し、指の先を鼻の高さに揃えます。
2、叉手(しゃしゅ)
歩くときの手の作法です。左手の親指を中にして拳を作り、これを胸に軽く当てて右手の掌でこれを覆います。※坐禅道場に入堂するときにはこの叉手を用います。
叉手は、左手の親指を中にして握り、手の甲を外に向けます。右の手の平を持って左手の甲に重ねてみぞおちの辺りに当ておきます。
入堂の作法
道場の入口の左側の柱の近くを左足から入堂します。
道場に入堂したら、一旦立ち止まり、聖僧様(僧形の文殊菩薩)に合掌して低頭(お拝)します。
叉手にてを戻して右足から歩みを進めて、自分の坐る位置にいきます。
(退堂の時は右足からでます。)
3、隣位問訊(りんいもんじん)
坐る両隣の人への挨拶です。自分の坐る位置に着いたら、その場所に向かって合掌し低頭します。両隣に当たる二人はこれを受けて合掌します。
4、対坐問訊(たいざもんじん)
坐る向かいの人への挨拶です。隣位問訊をしたら、右回りをして向かいに坐っている人に合掌し低頭します。向かい側の人はこれを受けて合掌します。
5、結跏趺坐(けっかふざ)
両足を組む坐り方です。対坐問訊が終わったら、合掌を解き、そのまま坐蒲(ざふ・)の上に腰をおろし、足を組みます。
右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、次に、左の足を右の股の上にのせ、左手を坐蒲に添え、右手は床をおさえ、身を坐蒲と共に右回りをして壁に向かいます。これを面壁(めんぺき)といいます。
6、半跏趺坐(はんかふざ)
結跏趺坐ができない人の足の組み方です。左の足を右の股のうえに深くのせます。
結跏趺坐でも半跏趺坐でも肝要なのは、両膝とお尻の三点で上体を支えることです。坐蒲を自分の体に合わせて調節し、両膝を確実に地につけることです。
7、上体の作法
足を組んだあとの姿勢です。両脚のまわりの衣服を整え、背骨をまっすぐにのばし、お尻を後方につきだすようにして腰にきまりをつけます。
両肩の力を抜き、腰の骨をまっすぐに伸ばし、首筋には力を入れず、顎を引き、頭で天をつきあげるようにすると、背骨がまっすぐになります。
8、手の作法(法界定印、ほっかいじょういん)
足を組んだ時の手の形です。
右の手のひらを上向きにして組んだ足の上に置き、その上に、左の手のひらを同じように上向きにして置き、両手の親指の先を、かすかに接触させます。
力を入れておしてはいけませんが、決して離さないようにします。
9、目の作法
視線です。目は決して閉じてはいけません。自然のままに開いておきましょう。
視線は、およそ1m前方、約45°の角度におとしたままにして、よそ見をしてはいけません。
10、呼吸の作法(欠気一息、かんきいっそく)
形を正したところでする息です。深々と息を鼻から吸い込み、これを徐々に口から吐き出します。
この深呼吸を数回行った後は、自然と鼻からの呼吸にまかせます。
11、口の作法
舌の位置です。舌の先を上の歯の内側の付け根につけ、歯と歯とをつけ、唇を密着させます。
口を真一文字に結んで、開けたり、動かしたりしてはいけません。
12、左右揺振(さゆうようしん)
身体を落ち着かせるために行います。
上半身を振り子のように左右に揺り動かして、大から小にゆすり、坐相をまっすぐに正しく落ち着かせます。
13、思いをはなつ
さまざまな思いにとらわれないことです。
目に映るものにも、耳に聞こえる音にも鼻に匂う香りにも、心に浮かぶ思念にも、なるがままに、それらの一切に引き込まれないように、気にかけないことです。
14、止静鐘(しじょうしょう)
坐禅の始まる合図です。
参禅者の身相が整う頃、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、正しい坐にあるかを点検します。これを検単(けんたん)といいます。
堂頭が自分の後ろに巡ってきた時は合掌をし、通りすぎた後に法界定印にもどします。
この後、鐘が三回鳴ります(止静鐘)。止静鐘が鳴ったら、党内に出入りをしてはいけません。
15、警策(きょうさく)
心のゆるみを警めるために打ちます。
睡魔におそわれたり、心が乱れた時などに自分から受ける方法と、姿勢が悪かったり眠っていたりする人に直堂(じきどう。堂内を監督し警策を行ずる者)の方から入れる方法があります。
どちらの場合も、右肩を軽く打って予告されます。その時に、合掌して首をやや左へ傾け右肩をあけるようにします。受け終わったら合掌のまま頭を下げ、もとの法界定印にもどします。
16、終わり
鐘が一回鳴ると終わりの合図です。合掌し低頭したのち、左右揺振します。今度は、両手の手のひらを上にして膝に置き、はじめ小さくだんだん大きく揺り動かします。
身体をほぐしたのち右回りをして向きを変えます。そして、足を解きゆっくりと静かに立ち上がります。坐蒲を元の形に直します。
直し終わったら、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位問訊)し右まわりして向かいの人に合掌(対坐問訊)します。
そのあと、叉手で退堂します。
17、経行(きんひん)
坐禅が長時間行われる場合、堂内をゆるやかに、静かに歩行することです。
坐禅中に経行鐘(きんひんしょう)が鳴ったら(二回鳴ります)、合掌し低頭し、左右揺振し、組んだ足を解きゆっくりと静かに立ち上がります。
坐蒲を直し、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位間訊)し、右回りして向かいの人に合掌し低頭(対坐問訊)します。
そのあと、叉手にして呼吸を整え、最初の歩を右足より出します。列の前後を等間隔に保ち、堂内を右まわりに緩歩します。緩歩の方法は、一呼吸に半歩前進します。
息を吸い吐く間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進めるのです。呼吸の仕方や上体の姿勢、目や口元などは、坐禅の場合と同様です。
時間になり、抽解鐘(一回鳴ります)を聞いたら、直ちにその場に両脚を揃えて止まり、叉手のまま低頭し、右足から普通の歩速で進行方向に進み自分の坐っていた場所に戻り、隣位問訊・対坐問訊したのち坐禅を続けます。
※坐禅が長時間に及ぶ場合の単位を「一ちゅう」と言い、約40分程度をさします。この「一ちゅう」は、寺院などで焚かれる長寸のお線香の長さに比例します。
ご家庭で坐禅をされる場合は、一般的に市販されている御線香は、一ちゅうの半分か1/3である15〜20分程度となっています。
■注意事項
・装身具、時計などははずし、靴下や足袋は脱いでおきましょう。
・堂内を歩くときは必ず叉手にします。
・党内を歩くとき、聖僧さまの前を横切ってはいけません。
・坐ったとき、隣の人にあわせて一列になるようにします。
■一日、三分坐禅の勧め
・一日の始まりである朝でも良いですし、一日の締めくくりの就寝前でもいいです。ベットの上でも構いません。
・主婦の方なら、家事の合間や休憩時間でも簡単にできるのです。
・イスを用いるならば、イスの半分くらいに腰をかけて背筋を伸ばすだけで、視線の位置や所作は坐禅の作法と変わりません。イスの坐禅なら、脚の不自由な方も簡単です。
・腰痛に悩まされている方のリハビリにも、最適なのです。
・家庭で坐禅をされる方は、坐蒲(ざふ)の代わりに座布団やクッションを用いるのも良いでしょう。
・坐蒲については、http://npo-jipa.orgにて取り扱っております。
※資料協力
・曹洞宗(大本山永平寺、大本山総持寺、曹洞宗師家会、曹洞宗青年部) ・臨済宗 ・黄檗宗 ・NPO法人JIPA
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2007/11/03(祝土)
文化を称える日
1948年に「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」として、国民の祝日に定められました。
第二次世界大戦に敗戦後、日本は連合国軍の管理下にあって新憲法を草案。練られた後、
1946年に「平和主義・国民主権・基本的人権の尊重」を宣言した日本国憲法が制定され、公布した今日11月3日を記念日にしたのです。
現在でも文化の日には「文化を称える日」として、皇居で文化勲章の授与式が行われます。また、文化庁主催による芸術祭なども開催されています。
文化の日には、日本において文化の発展に功労のあった人々に文化勲章が授与され、また文化功労者および各種褒章の受賞者の伝達式などが行われます。
文化勲章は1937年に制定され、紀元節(2月11日)、天長節(4月29日)などに表彰式が行われてきましたが、戦後の1948年以降、毎年11月3日の文化の日に贈られています。
11月3日、皇居では文化勲章の授与式が行われます。文化は永遠であるべきとの意向で作られた常緑樹の橘を模した勲章と、褒章として終身年金が贈られます。
自由と平和を愛し、よりよい日本文化を形成していきたいと切に願います。
■勲章・褒章〜栄誉のしるし※明治節と文化の日
栄典は、国家又は公共に対し功労のある方、社会の各分野における優れた行いのある方などを表彰するもので、勲章及び褒章があり、菊花章、旭日章、宝冠章、瑞宝章などの種類があります。
毎年、春と秋に実施される春秋叙勲や、88歳以上の方を対象とした高齢者叙勲、功績のある方が亡くなられた際に実施される死亡叙勲などがあります。
また、国の栄典制度改革により著しく危険性の高い業務(警察官、消防吏員、自衛官等)に精励された方を対象とした「危険業務従事者叙勲」が春秋叙勲とは別に創設されました。
春秋叙勲及び危険業務従事者叙勲は、毎年2回、春は4月29日、秋は11月3日に発令されます。毎回全国で春秋叙勲は約4,000名、危険業務従事者叙勲は約3,600名の方々が受章されます。
春秋叙勲及び褒章、文化勲章などは、マスコミでも毎回大きく報道されています。内閣府賞勲局では、栄典制度の調査、研究、企画業務のほか、春秋叙勲等における勲章等の授与の審査などの栄典に関する事務を行っています。
■栄典制度の沿革
明治4年9月に維新の大業なった新政府は、当時いわば「立法機関」として諸制度の建議の任に当たっていた「左院」に対して勲章制度の審議を指示し、次いで明治6年に左院の建議に基づき2等議官細川潤次郎ら5名を「メダイユ取調御用掛」に任命しました。
取調御用掛は、旧幕府陸軍奉行時代にも勲章制度の検討に携わっていた3等議官大給恒(後の賞勲局総裁)を中心に西欧諸国における勲章制度の調査を行い、我が国における勲章制度の創設に向けて検討を進め、明治8年4月に「勲章従軍記章制定ノ件」(太政官布告第54号) が公布されました。これが現在の旭日章の基になったもので、我が国の勲章制度の始まりとなっています。
以降明治9年に菊花章、明治21年に瑞宝章と宝冠章、また昭和12年には文化勲章が制定されました。
褒章については、明治14年12月の「褒章条例」(太政官布告第63号)公布により、紅綬褒章・緑綬褒章・藍綬褒章が制定されたのが始まりで、以降大正7年に紺綬褒章・昭和30年に黄綬褒章と紫綬褒章が制定され現在に及んでいます。
生存者に対する叙勲は、戦後一時停止されていましたが、昭和39年春から春秋叙勲として再開され、また褒章も昭和53年から春秋の褒章として春秋叙勲と同日付けで授与されてきました。
このように我が国の栄典制度は、国家又は公共に対する功労、あるいは社会の各分野における優れた行いを表彰する重要な制度として定着しているところですが、21世紀を迎え社会経済情勢の変化に対応したものとするため政府では栄典制度の見直しを行い、平成15年秋の叙勲及び褒章から現在の制度に移行しました。
現在、生存者に対する勲章・褒章の授与は原則として年2回、春は4月29日、秋は11月3日に春秋叙勲及び褒章(紅綬褒章、緑綬褒章、黄綬褒章、紫綬褒章及び藍綬褒章の5種類)が、また著しく危険性の高い業務に精励した者を対象とする危険業務従事者叙勲が春秋叙勲と同日付けで授与されています。
■栄典に関する法令
日本国憲法(抄)(昭和21年11月3日)
第七條 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
七 栄典を授与すること。
第十四條 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
日本国憲法は、天皇の国事行為の一つとして栄典の授与を規定しています。
■勲章及び褒章の英訳名
大勲位菊花章(だいくんいきっかしょう) Supreme Orders of the Chrysanthemum
大勲位菊花章頸飾(けいしょく) Collar of the Supreme Order of the Chrysanthemum
大勲位菊花大綬章(だいじゅしょう) Grand Cordon of the Supreme Order of the Chrysanthemum
大勲位菊花章は、我が国の最高位の勲章であり、天皇および皇族にのみ授与されますが、吉田茂・佐藤栄作・中曽根康弘の総理大臣経験者にも授与されました。
明治9年に大勲位菊花大綬章が制定され、同21年に大勲位菊花章頸飾が制定されました。
勲章のデザインは、国旗である「日の丸」を象徴する日章を中心に光線(旭光)を配し、回りに菊花と菊葉を配したもので、鈕(章と綬の間にあるもの)には菊花を用いています。
また、頸飾は制定の元号である「明」「治」の二字を古篆字で飾り、菊花と菊葉が配されています。
桐花大綬章(とうかだいじゅしょう) Grand Cordon of the Order of the Paulownia Flowers
三権の長や博士号を有した者に送られる場合が多い。
明治21年に旭日章(きょくじつしょう、詳細後述)の最上位勲章の旭日桐花大綬章として制定されましたが、現在は別種類の勲章として運用されています。
勲章のデザインは、日章を中心に光線(旭光)を配し、回りに桐花を配し、鈕には桐の花葉を用いています。
旭日章(きょくじつしょう) Orders of the Rising Sun
旭日大綬章(だいじゅしょう) Grand Cordon of the Order of the Rising Sun
旭日重光章(じゅうこうしょう) The Order of the Rising Sun, Gold and Silver Star
旭日中綬章(ちゅうじゅしょう) The Order of the Rising Sun, Gold Rays with Neck Ribbon
旭日小綬章(しょうじゅしょう) The Order of the Rising Sun, Gold Rays with Rosette
旭日双光章(そうこうしょう) The Order of the Rising Sun, Gold and Silver Rays
旭日単光章(たんこうしょう) The Order of the Rising Sun, Silver Rays
明治8年に我が国最初の勲章として制定されました。勲章のデザインは、日章を中心に光線(旭光)を配し、鈕には桐の花葉を用いています。
瑞宝章(ずいほうしょう) Orders of the Sacred Treasure
瑞宝大綬章 Grand Cordon of the Order of the Sacred Treasure
瑞宝重光章 The Order of the Sacred Treasure, Gold and Silver Star
瑞宝中綬章 The Order of the Sacred Treasure, Gold Rays with Neck Ribbon
瑞宝小綬章 The Order of the Sacred Treasure, Gold Rays with Rosette
瑞宝双光章 The Order of the Sacred Treasure, Gold and Silver Rays
瑞宝単光章 The Order of the Sacred Treasure, Silver Rays
明治21年に制定されました。勲章のデザインは、古代の宝であった宝鏡を中心に大小16個の連珠を配して、四条ないし八条の光線を付し、鈕には桐の花葉を用いています。
文化勲章 Order of Culture
昭和12年に制定されました。勲章のデザインは、橘の五弁の花の中央に三つ巴の曲玉を配し、鈕にも橘の実と葉が用いられています。
常緑樹である橘は、平安京の頃から京都御所紫宸殿の南庭に植えられ、「右近の橘」と称されるなど古来から珍重されており、その悠久性・永遠性は文化の永久性に通じることから文化勲章のデザインに採用されたと言われています。
宝冠章(ほうかんしょう) Orders of the Precious Crown
宝冠大綬章(だいじゅしょう) Grand Cordon of the Order of the Precious Crown
宝冠牡丹章(ぼたんしょう) The Order of the Precious Crown, Peony
宝冠白蝶章(はくちょうしょう) The Order of the Precious Crown, Butterfly
宝冠藤花章(とうかしょう) The Order of the Precious Crown, Wistaria
宝冠杏葉章(ぎょうようしょう) The Order of the Precious Crown, Apricot
宝冠波光章(はこうしょう) The Order of the Precious Crown, Ripple
明治21年に瑞宝章と同時に制定されました。
宝冠章は女性のみに授与される勲章で、デザインは、古代の女帝の冠を模した宝冠を中心に周囲には真珠と竹枝、桜の花葉を配しています。
鈕は古代宮廷女官の衣紋によったと言われている桐、牡丹、蝶、藤、杏、波紋を用いています。
現在は、外国人に対する儀礼叙勲等特別な場合に限り運用されています。
褒章 Medals of Honour
明治14年に紅綬、緑綬、藍綬の各褒章が制定され、大正7年に紺綬、昭和30年に黄綬、紫綬の各褒章が制定されました。
褒章のデザインは、「褒章」の二字を桜の花で飾った円形のメダルで、綬の色(紅、緑、黄、紫、藍、紺)により区分されます。
紅綬褒章(こうじゅほうしょう) Medal with Red Ribbon
自己の危難を顧みず人命の救助に尽力した方
緑綬褒章(りょくじゅほうしょう) Medal with Green Ribbon
自ら進んで社会に奉仕する活動に従事し徳行顕著なる方
黄綬褒章(こうじゅほうしょう) Medal with Yellow Ribbon
業務に精励し衆民の模範である方
紫綬褒章(しじゅほうしょう) Medal with Purple Ribbon
学術、芸術上の発明、改良、創作に関して事績の著しい方
藍綬褒章 (らんじゅほうしょう) Medal with Blue Ribbon
公衆の利益を興した方又は公同の事務に尽力した方
紺綬褒章(こんじゅほうしょう) Medal with Dark Blue Ribbon
公益のため私財を寄附した方等
飾版 Bar
既に褒章を授与された方に更に同種の褒章を授与すべき場合
飾版(金) Gold Bar
飾版(銀) Silver Bar
杯
勲章に替えて授与されるもの(菊紋)、褒章条例に基づき授与されるもの(桐紋)
銀杯(一組・菊紋) Silver Cups with the Chrysanthemum Crest(Set of three)
銀杯(菊紋) Silver Cup with the Chrysanthemum Crest(Single)
銀杯(桐紋) Silver Cup with the Paulownia Crest(Single)
木杯(一組台付・菊紋) Wooden Cups with the Chrysanthemum Crest(Set of three)
木杯(一組台付・桐紋) Wooden Cups with the Paulownia Crest(Set of three)
以前、明治天皇の誕生日が太陽暦で換算すると11月3日であることから、この日を明治節と呼んでいたが、文化の日は明治節とは関係なく定められた。
(参考文献)
『産経新聞取材班・祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ』(角川書店)
・内閣府
・文化庁
・山田家(蝦夷之国金龍山開基 積徳禅院殿宮梅嶽慧香大居士 遺品)
2007/10/30(火)
菩薩行のかたち。『百年の愚行』
TVで紹介された、『じてんしゃ図書館』の青年、徳島県出身の土居一洋さん(28歳)
彼は、全国を自転車で歩く「自転車図書館」の館長さんなのです。
着物姿に地下足袋、自転車の後部には水車の本棚。
出版社や大手企業のスポンサーは全く無く、貸し出す本の費用の捻出は、彼が旅先で一時逗留しアルバイトなどをした
「無償の貸本」の奉仕活動で全国を旅している。
貸し出した本には、彼自ら手書きで大木の絵を書いて渡すのである。
「読み終わったら、この木に木の葉を書いて次の人に渡して呼んでもらってください。」彼はそうして人々に本を渡す。
一人に渡した本は、土居一洋さんの書いた大木に思い思いの木の葉を書いて次の人に渡す。。
土居一洋さんが貸し出すのは、環境問題を扱った書籍ばかり。
こうしたことをするには、土居一洋さんの目的がもう一つあるのだ。
それは、『百年の愚行』と云う本を全国の図書館に置いてもらうというものだ。
これまでの2年9ヶ月、北海道から関東・甲信までの1,600ヶ所の図書館を回った。
では、『百年の愚行』とはどんな書籍なのだろうか。(以下の紹介は「Think the Earthプロジェクト」WEBサイトより引用)
「Think the Earthプロジェクト」は、アースデイにあたる2002年4月22日、写真集『百年の愚行』を発行。Think the EarthプロジェクトHP
本書は、同プロジェクトから発売される二つ目の商品であり、
21世紀のはじまりに地球の未来を考えるきっかけとなる強いメッセージを込めた写真集。
本書の売上げの一部は、同プロジェクトを通じ持続的な未来のための活動に使われる。
『百年の愚行』の企画を立ち上げた当初、この写真集を“世界各国の古新聞の上に直接印刷をして”つくろうと考えた。
写真家とメディアに対して敬意を表したいという思いと、
大量生産とリサイクル時代の象徴でもある古新聞を“リユース”し、新たな価値を生み出したいという思いがあり、
さまざまな角度から可能性を探ったが実現には至らず、結果として辿り着いたのが、
古新聞のコラージュでつくったA2(42cm×59.4cm)サイズの台紙に写真を貼り込んだ「オリジナル版」を100枚つくり、
それを出版物に反映させていく方法。
この「オリジナル版」は、100枚すべてが世界で唯一、一点ものの作品。
私たちの思いを最もストレートに表したものでもあり、展覧会・巡回展などで皆様に見ていただきたい。
「オリジナル版」に使われている古新聞は、海外新聞普及協会、ナショナル・プレスクラブ、日本アセアンセンター、イスラミック協会
などの団体をはじめ、国内外に住むスタッフの友人・知人の協力によって集められたもの。
世界各国、100媒体を優に超えるバリエーションに富んだ古新聞の束を張り合わせて、台紙をつくた。
難民問題、都市犯罪、株式情報、新商品発売、文化賞の発表……。
さまざまな言語で印刷された新聞には、いろんな時間を、いろんな思いで生きている人々の「今」があり、
古新聞の重なりは、事実と時間の集積でもあるのだと感じることができる。
100枚の台紙のなかには、厚さ1cmになるものもある。
100枚の写真は、主に世界最大のデジタルフォトストックエージェンシー「コービス」と、
世界的なフォトジャーナリスト集団「マグナム・フォト」のアーカイブから選んだ。
選んだ写真は、サンニチ印刷の協力により、最新の出力機でプリントしたが、この出力機が優れもの!
オフセット印刷と同じ顔料を使用し、レーザーで焼き付けるというもので、印刷と同レベルのクオリティが確保できる。
サンニチ印刷の工場にある印刷本機に直結し、リモートプルーフ(色校正の遠隔地操作)でやりとりができたのもポイント。
この再現性の高いプリントを、アートディレクター佐藤直樹さんをはじめとするアジールデザインのデザイナーが、
古新聞の台紙に1枚1枚手作業で張り込んでつくっていた。
特別寄稿
池澤夏樹(小説家)
アッバス・キアロスタミ(映画監督)
フリーマン・ダイソン(宇宙物理学者)
鄭義 チョン・イー(小説家)
クロード・レヴィ=ストロース(文化人類学者)
主な受賞
2002年 東京ADC賞
2003年 ニューヨークADC賞銀賞
2003年 I.D. Annual Design Review グラフィック部門BEST OF CATEGORY
http://www.thinktheearth.net/jp/
「Think the Earthプロジェクト」の基本テーマは、「エコロジーとエコノミーの共存」。
地球環境問題はいうに及ばず、人権や保健・医療問題にも関わっている。
この『百年の愚行』と土居一洋さんの出会いは、彼のWEBサイトで伺い知ることが出来る。
(じてんしゃ図書館(http://asobook.nomaki.jp/)より引用)
平成16年3月、仕事帰りに寄った本屋さんで『百年の愚行』という本に出合いました。とある。
環境破壊や戦争など、人類が20世紀に行なった数々の「愚行」を100枚の写真とエッセイでつづった本です。
「21世紀もまた同じ世紀にするのか? 本当に大切なことにまだ気付けないのか?」
そんなメッセージを全身で受けとめ、その日は夕食すら食べられませんでした。
数日後、店にあったその本を3冊買い、
2冊を友達に「とにかく読んで」と渡し、1冊は自分の手元に置いて毎日ページをめくりました。
僕のまわりの人は、その本を知りませんでした。
近くの図書館に行ってみると、『百年の愚行』は置いていませんでした。
司書の方に会って話をすると、彼はこちらの気持ちを受け止めてくださり、図書館で取り寄せてくれました。
1ヵ月後、調べてもらうと、3人の方が借りていました。
これはチャンスだと思いました。この本を1人でも多くの人に読んでもらうことで、
地球上で起こっていることを自分自身の問題と捉える人が増えるんじゃないか。
そうすれば少しでもいい方に変わるんじゃないか――。
そして平成17年1月、自転車で愛知県の自宅を飛び出しました。
全国3,000箇所の図書館をまわり、その本を置いてもらうよう、お願いする旅を始めたのです。
ところが、旅は思い通りにはいきませんでした。話さえ聞いてもらえない図書館も少なくありませんでした。
さんざん悩んだ末に、ひとつの答えを見つけました。
「自分が図書館になればいいんだ。そうすれば置きたい本を並べることができる」
こうして、自転車に連結させたトレーラーに手製の本棚を取り付け、「じてんしゃ図書館」が始まったのです。
現在、全国の図書館に『百年の愚行』を置いてもらうための旅を続けながら、
同時に、道中で本の貸し出しを行っています。
「じてんしゃ図書館」には子供にもわかりやすく書かれた環境問題関連の本を置いています。
1人1冊まで自由に借りることができ、返却は不要。読み終わったら、誰かにまわしてもらう、というシステムです。
見かけたときは、どうぞお気軽に声をかけてください。そして、借りていただいた本から何かを感じていただければ幸いです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
「じてんしゃ図書館」館長 土居一洋
地方行政はとかく、住民感情や世情に疎いのが実情で、時代の流れすら見ようとしない。
かの、年金問題においては、とある地方自治体の首長が厚生労働大臣の発言に、
いちいち抗議文を送るお粗末な行為もあった。
抗議文を送るくらいの清廉さと潔癖さを持ち、自らの地方自治体に自信を持って運営しているのであれば、
国家や地方の財政難を鑑みて、地方交付税や国家からの特別予算の交付を謹んで辞退すべきであろう。
土居一洋さんのように、日常の生活や食事よりも、地球の環境問題や世界の変化に対して真摯且つ勇気を持った、
無償の行動はこれまでの行政の怠慢と驕りを戒める意味でも良いであろう。
ただ、土居一洋さんの行動と役人の言動とを比較しようにも次元が違いすぎる。
世の中の万人が失った「品格」が土居一洋さんにあるのかもしれない。
四国八十八ヶ所霊場札所巡りには、お遍路さんに対して、地元の人達の「お接待」と云うものが現在も残っている。
素泊まりさせてくれたり、お茶やお茶菓子を提供してくれたりするのである。
勿論、これらの行為は、無償なのである。
現在、良く、「ボランティア」という言葉を良く耳にするが、本来のボランティアには「志願兵」という意味も含まれている。
土居一洋さんが始めたことは、『百年の愚行』を全国の図書館に置いてもらうことといった小さなことではあるが、
私が行政に携った頃やマスコミの記者時代に特に傾注して記事に用いて書いた「国家百年の大計」の根幹を行動に示した。
現在でこそ、ネットや掲示板で自己主張や意見を匿名・実名問わず行えるようにはなり、
言葉や文字で様々なことを表現できるが、
土居一洋さんのような若い青年時代を過去の反省と未来の真実なる幸福のために一生懸命になれる人はそう多くはないであろう。
ましてや、国家や地方行政は崩壊している今日、国民の一人一人が明日のことを考えることに精一杯なのも現実なのである。
願わくは、土居一洋さんが訪れた図書館では温かく寛大な対応を切に望み、多くの人々は蔭ながら見守ってほしく思う。
2007/10/27(土)
反省と感謝
昨今、話題となっているスポーツ界。
最近では、ボクシングでの親子関係について取り沙汰されています。これは、今話題になっていることばかりではありませんが、「謝罪」のあり方を現代の人々に考える必要があるように思えます。
企業の食品表示偽装の問題でも代表者の説明が二転三転する曖昧さと責任になさにも時代のそれらに象徴される感は否めません。
今や国家や公務員の権威も低落し通用しない時代になったのは、公務員の倫理観や道徳観が希薄になり、情報の公開とともにこれらの不正が国民の前に連日のように報道されていることも嘆かわしいかぎりです。
果たして、「時代が変わった。」の一言で終わるのでしょうか。
政治も経済も時代も眼に見えな多くの人々によって作られ、動かされてきました。それは、古今普遍のものなのです。
もう、バブル経済は過去の産物として扱われはじめていますが、この二十年、政治や経済、時代は人間の手によって変貌をしました。しかし、その変貌は、皆が望む方向ではなかったようです。
株で名を馳せた時代の寵児は、結果として法廷に立つこととなりました。元官僚でこの時代の寵児とともに歩んだ人物も同様です。
「駅前留学」や「お茶の間留学」で日本人の語学の場を提供した会社は、事実上の破綻。いつの時代でも、「嘘」とか「本物」とか是非・善悪とは全く次元の違う、「真実」しかないのではないでしょうか。
帝王学の基礎となる「貞観政要」「群書治要」「帝範」「弘帝範」などの書物や、「老子」「儒教」などにはこの真実について説明がされています。
「自然淘汰」とは、この「真実」にほかならず、真実ではない事柄や案件については、「罪」として処遇されるのです。人が人を法を以って裁いたとしても、消えない罪や咎はあります。
古事記には次のような記述があります。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟神、素盞嗚命(すさのおのみこと)は天照大御神に多くの嫌がらせや悪戯を重ねたことから、天照大御神は大いに嘆き、悲しんで天の岩戸にお隠れになりました。
天照大御神が隠れたことのよって高天原は暗くなり、森羅万象の成長が止まり、時間が止まったようになってしまったのです。
困りはてた高天原の神々は会議を開き多くの智恵をだしました。天の岩戸の前で、神々は宴会を始めたのです。
天宇受賣命(あめのうずめのみこと)は裸おどりをし、神々が大いに騒いでいることを不思議に思った天照大御神は岩とをそっと僅かに開けて、「私が天の岩戸に隠れてみんなは困っているはずなのに、どうしてあなた方は楽しくしているんですか???」と言いました。
天思兼命は、大きな鏡を取り出して、「貴女様に変わる太陽の神様が現れたので、祝宴をしているのです。貴女様もその神様をご覧になりますか?」と尋ねると、天照大御神は岩とをそっと更に開けて鏡を見たのです。
その隙を見て、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸を開けて投げ飛ばし、現在の長野県戸隠に落ちたたのです。こうして、再び太陽が元に戻りました。
天照大御神ももとで、多くの神々は素盞嗚命の処遇について話し合いを重ねたのです。
素盞嗚命には天照大御神や神々に対して多くの山の幸、海の幸、種々の珍品を奉納させ、犯した罪の重さを絶対に忘れないために手と足の生爪を剥がさせ、更には二度と高天原に昇らないことと、高天原から追放を命ぜられたのです。
高天原と追放された後の素盞嗚命の功績は大きなものがあります。出雲神話にあるように八の頭をもつ龍を退治し、その龍の尾から出た剣を天照大御神に奉納しました。この剣は、現在の熱田神宮の御神体です。
素盞嗚命の子孫である大国主命(おおくにぬしのみこと)は天照大御神を始めとした神々に国王の座と土地を奉納しました。
余談が長くなりましたが「反省」や「感謝」は、単に自己満足ではいけないということなのです。
ことに人間は感情の生き物であります。そこには、金銭的、物質的な贖罪・長時間(一生をかけての)を要する贖罪があるのです。誠意や真摯な対応というのは、相手の受け方次第でいかようにでもなります。
古事記の記述観えるように、謝罪する側がいかに持て得る以上で最大の努力を形で示し、更に本人の意識とは別に問題の大きさと重大さを知らしめ相手の思う以上の規模と時間をかけて贖罪することが必要かを説いているのです。
学校教育の現場では、子供の給食費を支払わないということも問題になっているようです。過去の例でいうならば、家庭環境が著しく芳しくない場合が考えられますが、現在ではそうでもないよういです。
「逆ギレ」という言葉も今日では定着しています。
本来謝罪もしくは贖罪すべき人間が開き直って逆に恫喝や恐喝まがいの言葉を発したり、凶暴な態度を取ることをいうそうです。また、自らのあやまちを正当化する人々も増えてきているのも事実でありましょう。
「個の尊重」とは、ある種一定の規制や制限、決まりやルールの中で自分らしさを保ち、演出するかではないでしょうか。
自由国家=無法国家、ではないのです。資本主義=何でもあり、ではないのです。
一定の規制や制限、決まりやルールとの根底には、道徳や倫理、貞操観があります。また、一定の規制や制限、決まりやルールも上に法律や憲法が存在します。情報の氾濫がいけないのではなく、それを扱う要件が追いついていないのも現況としてあります。
「懺悔」(キリスト教ではザンゲ、仏教ではサンゲと読む)とは神仏に自らの罪や咎を声に出して露呈し反省する。また、反省したことをもとに心を入れ替えて神仏に一生をかけて贖罪に励むこと。とあります。
法のもとで裁かれた罪や咎・量刑はあくまでも一つの目安であって、その量刑でずべての罪や咎が消え、贖罪が終わった訳ではないのです。
更にいうならば、被害を受けた人々は、故意、過失を問わず、心の中に感情的なものを含めて嘆かわしく悲しい思い出と、卑しくも辛く苦しい深い心の傷を墓場まで抱いていくものなのです。
「衣食足りて、礼節を知る。。。」という言葉がありますが、現在には心の品格ばかりか自己の品格を失った人が多いようでなりません。
反省や感謝は、血の通った受け取る側の人間の判断なのです。
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2007/10/05(金)
相撲のふるさとは「神事」
相撲は神事としての性格が欠かせません。
古くは大陸系から渡来した葬送儀礼としての相撲と、東南アジアから伝来した豊穣儀礼としての相撲があったと考えられます。
【神事としての相撲】
祭の際には、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願い、相撲を行なう神社も多いのです。
そこには、卜占いとしての意味も強く、二者の勝敗より、五穀豊穣や豊漁を占うというものです。
和歌山県、愛媛県大三島の「ひとりすもう」の神事を行なっている神社もあり、稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるもの、などもあります。
相撲神事を行うことで土中の邪気を払う意味の儀礼である四股(しこ)は重視され、相撲神事の多くではこの所作が重要視されています。陰陽道や神道の影響も受けて、所作は様式化されていきました。
(大相撲の神事)
江戸中期以降の大相撲は特に神道の影響が強く、力士の土俵入りの際に柏手を打ち、横綱が注連縄を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた吉田司家の許可に基づくものであります。
東京での本場所前々日には東京都墨田区の野見宿弥神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹部や相撲茶屋関係者が出席して、出雲大社教の神官によって神事が執り行われています。
■土俵祭
土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事です。
介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終了。
寛政3年(1791年)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に吉田追風が「方屋開」として始めたもと記述があります。
相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することも出来ず、現在でも土俵上に女性が登るのを忌避しています。
もともとスポーツではなく、力のある男性が神前にてその力を捧げる神事であり、そのため神に対する敬意を示すための礼儀作法が重視されているのです。
【相撲の起源】
■古代
相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器・土偶にもその様子が描写されています。
『古事記』の日本神話においては、建御雷命(タケミカヅチ)の葦原中国平定の際、建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後建御雷命の腕を掴んで投げようとした描写があります。
その際建御雷命が手をつららへ、またつららから剣に変えたため掴めず、逆に建御雷命は建御名方神の手を葦のように握り潰してしまい勝負にならなかったそうです。
『日本書紀』には、神ではなく人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年7月7日(旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速(当麻蹴速)」の「角力」(すまひと訓す)での戦いである(柔道または、柔道の起源)といっています。
この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也。」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、宿禰が蹴速を蹴り技で脇骨と腰を折って殺したとされ、少なくとも現代の現在の相撲とは異なり、武術であったと思われます。
『古事記』の垂仁記には、
「ここをもちて軍士の中の力士の軽く捷きを選り聚めて、宣りたまひしく、その御子を取らむ時、すなわちその母王をも掠取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り穫む隨に、掬みて控き出すべし。とのりたまひき。ここにその后、かねてかその情を知らしめして、悉にその髪を剃り、髪もちてその頭を覆ひ、また玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、また酒もちてその御衣を腐し、全き衣の如服しき。かく設け備へて、その御子を抱きて、城の外にさし出したまひき。ここにもの力士等、その御子を取りて、すなはちその御祖を握りき。ここにその御髪を握れば、御髪自ら落ち、その御手を握れば、玉の緒また絶え、その御衣を握れば、御衣すなはち破れつ。」
とあり、初めて「力士」(ちからひと・すまひひと)の文字が現れました。
『記紀』には、景行天皇四十年(110年)に日本武尊が、大和国の息吹山の神を素手で倒そうと、草薙剣を持たずに、素手で山に入った事が記されています。
『日本書紀』の雄略天皇十三年(469年)に、秋九月、雄略天皇が二人の釆女に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれています。
これが記録に見えるわが国最古の女相撲なのです。
『日本書紀』の皇極天皇元年(642年)7月12日「乙亥 饗百濟使人大佐平智積等於朝 或本云 百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名 恩率軍善乃命健兒相撲於翹岐前」にあるとおり百済の王族の使者をもてなすため、健児(こんでい・ちからひと)に相撲を取らせたことが書かれています。
『古事記』『日本書紀』以外にも相撲の記述が見られます。
■奈良・平安時代
『萬葉集』の五巻に、天平2年(730年)4月6日と、翌年(731年)6月17日に相撲をしたという記録があります。
聖武天皇は勅令をもって、全国各地の農村から相撲人をなかば強制的に募集し、毎年7月7日の七夕の儀式に、宮中紫宸殿の庭で相撲を観賞したとあり、こうした宮中における相撲の披露は、「天覧相撲」と称さました。
平安時代になると、相撲がすでに宮中の重要な儀式となり、毎年、定期的に「三度節」の一つとして「相撲節会」が行われました。
相撲節会の儀式は、すなわち中国唐代の儀式をまねたもので、三度節には、「射礼」と「騎射」、「相撲」の三つの内容です。
その規模は壮大で、豪華絢爛な催しであったとされています。
宮中で行われた相撲節会のほかには、民間の相撲も大いに行われて、一般の庶民による相撲は「土地相撲」、または「草相撲」と呼ばれていました。
一方、「武家相撲」は武士たちの組み打ちの鍛錬であり、また心身を鍛える武道で、やがて実戦用の武術と発展します。
また「神事相撲」は、農作物の豊凶を占い、五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するための農耕儀礼として受継がれていきます。
宮廷相撲であり、民間の相撲。武家相撲であり、庶民の相撲であるが、とりわけ「相撲節会」は、古代中国の宮廷で行われた角力が遣隋使・遣唐使の歴史以前にも往来があり、来渤海使もなんども日本へ赴いたなかで影響も推測されます。『今昔物語集』などの当時の説話には、相撲節会におもむく全国各地の力士たちにまつわるエピソードが紹介されています。
■鎌倉・室町時代
源頼朝が相撲を奨励し、また、曾我兄弟の仇討ちもこの頃に起きています。
室町時代以前には着衣で相撲を楽しむ庶民の絵などが残されており、遊戯としては土俵も無く着衣で行なわれていたようです。
戦国時代には、織田信長が相撲を奨励し、信長は土俵の原型の考案者とされています。
■江戸時代
江戸時代から、職業としての相撲が始まり、大相撲と呼ばれるようになりました。興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代のはじめ頃のようです。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、1648年(正保4年)には幕府によって江戸における辻相撲禁止令が出されたとあります。
その後、1684年(天和4年)、寺社奉行の管轄下で、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可されたのです。このとき、興行を願い出たものに、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡のはじめとなったと謂われています。
このときの興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われ、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代のあいだ、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われたのです。
本所の回向院での開催が定着したのは、1833年(天保4年)のことです。
『相撲傳書』によるとこのころは土俵はなく「人方屋」という見物人が4〜5間(直径7〜9m)の人間の輪を作り、その中で取組が行われたようです。
寛文年間(17世紀半ば)には格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われ,それが後に俵で囲んだ四角い土俵になりました。
次に延宝年間(1670年頃)、土俵の四隅に四神をあらわす4色の布を巻いていた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による13尺(3.94m)の丸い土俵が設けられたのです。
享保年間(18世紀はじめ)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができました。これに外円をつけて二重土俵(「蛇の目土俵」ともいう)となり、内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれました。
この時期には江戸のほかにも京都や大坂に相撲の集団ができ、当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱え、京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せたようです。
興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、このころから、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式がはじまったようです。
現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年(宝暦7年)のもので、京都や大坂では、それよりも古いものが残されています。
江戸相撲は、1789年(寛政元年)、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助、小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉の上覧相撲1791年(寛政3年6月11日)を成功させ、雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲がおおいに盛り上がり、やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれたのです。
各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催されたようです。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れはじめるのは幕末から明治にかけてのことです。
1827年(文政10年)、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めました。
幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた記述があります。
また、アメリカ合衆国海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年(嘉永6年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出して,一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び米軍人を驚嘆させたとあります。
1863年(文久3年6月3日)、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎(肥後出身)de,この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力したようです。力士のなかには、後に勤皇の志士となったものもいます。
■明治中頃
訪米中の常陸山明治維新と文明開化に伴い、1871年(明治4年)東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処されました。また「相撲禁止論」が浮上した事もあるようです。
これは、みずからも相撲をとることの多かった明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、1884年(明治17年)に天覧相撲が実現し、大相撲が社会的に公認されることで危機を乗り越えることができたのです。
この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代初代横綱・梅ヶ谷藤太郎です。東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立しました。
1890年(明治23年)に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付にはじめて「横綱」の表記が登場します。これはなかば偶然の産物でしたが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していきます。
この頃から映像が映されだし、小錦や大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存しています。
20世紀の変わり目のころには、横綱常陸山谷右衞門(明治29年に名古屋相撲から大阪相撲へ。後広島相撲から東京相撲へ。)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識がひろがります。
1907年(明治40年)常陸山が渡米。本格的な海外への相撲の紹介の最初でありました。
1909年(明治42年)6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。相撲が「国技」とされたのがこの時なのです。
土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われ、このとき、東西制と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与されました。
時事新報社(現在の毎日新聞社)の優勝額贈呈によ、現在の優勝制度が始まります。
今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実ともに10日間興行の体裁が整い、興行日数は、1923年(大正12年)5月から11日間に増加しました。
1910年(明治43年)5月の夏場所に行司の衣装がそれまでの裃、袴姿の庶民の正装姿から烏帽子、直垂という武家・神官の装束となったのです。
1917年(大正6年)11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期、靖国神社境内で本場所が行われたこともありました。
興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようにもなりました。
大阪相撲においては、1922年(大正11年)竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下します。
東京相撲でも、1923年(大正12年)に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善をもとめるストライキが発生し、その処理をめぐって横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こります。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。
1924年(大正13年)1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催され、それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかったといわれています。
1925年(大正14年)皇太子(裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯がつくられました。
これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれます。
また、1926年(大正15年)1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり個人優勝制度が確立します。
■昭和時代
昭和11年6月相撲は尋常小学校の正課授業と扱われました。
1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月・両国、3月・関西、5月・両国、10月・関西の計4回、11日間で開催(1929年(昭和4年)は10月でなく9月)されるようになります。
ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤もともないながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われませんでした。
この時期、勝負に関するさまざまな改定が行われたようです。
1928年(昭和3年)からラジオ中継がはじまったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられました。
個人優勝制度確立のなかで、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなったといわれています。
1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円をなくし15尺(径4.55m)の一重土俵にし、またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人となりました。
1932年(昭和7年)に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となったようです。
69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年(昭和12年)5月場所より13日間となり、1939年(昭和14年)5月場所より15日間と移り変わります。
戦争の影響がしだいに相撲界にも及び、1944年(昭和19年)に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移しました。
そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催。
1945年(昭和20年)5月に番付は発表されましたが、空襲で6月に延期され、結果的に興行は7日間だけ行われ、これが戦争中最後の本場所でした。
ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋ではのちのちまで稽古場に当時の土を保存していました。
また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいたようです。
東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。
戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まります。
1945年(昭和20年)9月に土俵を16尺(4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催されました。
土俵については力士会の反対でもとの大きさ15尺(4.55mすなわち現在の土俵)にもどされました。
1946年(昭和21年)に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装。
そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われ、連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年(昭和22年)には明治神宮外苑相撲場(現在は明治神宮第二球場)にて行うこととなります。
青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年(昭和23年)の5月をそれぞれ執り行うに留まりました。
同じ年の1948年(昭和23年)の秋場所(10月・11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催。
この時期に、優勝決定戦や三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われました。
1949年(昭和24年)になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催。
5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間。
この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊し。
そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなります。
ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となったのです。
その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていきました。
1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)は、本場所(1月、5月、9月)各15日間行われた(ただし1952年(昭和27年)には大阪場所が行われず、すべて東京での開催)。
大阪場所は、1950年(昭和25年)の秋場所より開催地を阿倍野区に、1951年(昭和26年)の秋場所からは大阪市難波(今現在の大阪府立体育会館のある場所)にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年(昭和28年)に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館(旧大阪府立体育館・現在の府立体育館と同じ場所)を完成させました。
同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになります。
栃錦と初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていきます。
1957年(昭和32年)には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年(昭和33年)には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になりました。
1965年(昭和40年)1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され現在に至っています。
1985年(昭和60年)1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻ったのです。
相撲は男性が行う競技ですが、江戸時代から戦前にかけては女相撲の興行も存在しし、近年ではアマチュアの女子相撲(新相撲)が行われ「日本新相撲連盟」という組織が存在します。
■海外に渡った相撲
日本移民とともにブラジルに渡り、南アメリカにも渡りました。
ブラジルでの最初の相撲大会は1914年8月31日、天長節を祝してサンパウロ州グアダバラ耕地で、開催。
福岡県、熊本県出身の30人余の若者が参加し、日本の本式の土俵で行われたようです。
1962年、アマチュアの普及発展を目的に、伯国相撲連盟が結成。
1966年にはブラジル政府公認のスポーツ団体となりました。
相撲推定人口は約4000人、本部はサンパウロ市。
1983年、日本とブラジルの両相撲連盟が発起人となり国際相撲協議会を発足。
1985年にはパラグアイ、アルゼンチンの相撲連盟が同協議会に加盟する。
1986年、パラグアイへの日本人移民50周年記念事業として、全パ相撲大会が開催され、日本、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイの4か国から選手が参加。
日本からの遠征は1951年、全伯青年連盟の招聘による秀の山一行の渡伯を皮切りに、大相撲からアマチュア相撲の選抜選手が現在も遠征が続けられている。
■伝統とそれによる問題点
大相撲は、力士が大銀杏などのまげ(髷)を結って和装をしたり、土俵上への女性の立ち入りを認めないなど、日本の伝統文化が色濃く残っています。
一説には、「天の岩戸」伝説に登場し、伊勢皇太神宮の祭神でもある「天手力男命」が相撲の祖ともいわれています。
土俵には土盛りをして、神の留まる場所としての「御幣」をすえます。
また、各相撲部屋には稽古場には必ず厳かに神棚と幣帛があります。
横綱審議委員会という諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘。
かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況。
結果として年寄株の高騰を招き、「準年寄」制度の導入などで対応したが、それでも数々のトラブルが発生しているようです。なお、準年寄制度は2007年に廃止されたのです。
小錦、若乃花(花田勝)、曙といった、大関・横綱を務め人気もあった人たちが次々協会を離脱しているのには、芸能界や格闘技、プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても日本相撲協会から雇われる身という将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われています。
さらには、伝統に対して対立していた朝青龍に対し多々の問題に関して、日本相撲協会が2007年には2場所出場停止と謹慎という異例の処分を下したことにより日本並びにモンゴルのマスメディアがこの処分を大々的に報道され騒動となったのは記憶に新しく、年寄になるためには、日本国籍が必要。
しかし、現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らは協会に残るために日本国籍を取得しています。(前述の元関脇・高見山=現・東関親方など)
規則が現実に対応できていないことは確かのようでありましょう。
大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙。(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしています。
今、話題になっている「かわいがり」と言われる問題に関して、新人に対し竹刀を用いて厳しい指導を行ったりと非難を受けている。
問題の相撲部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生しているようです。
昨今の相撲は個人の勝敗の色が濃く、個人の利害に振り回されているように見えてなりません。
勝敗や利害のためのスポーツである前に「国技」であり、国技であるまえに老若男女・貴賎を問わない娯楽であります。また、娯楽である前に畏くも「神事」である「事実」と「意義」を再確認したいものであります。
失う時は一瞬です。
失ったものは取り戻すことも、作り直すことも出来ないのです。
こうして、日本の伝統や尚武の「美意識」がまた一つ消えて無くなるのは遺憾としかいいようがありません。
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2007/09/24(月)
朱蒙(チュモン)(東明聖王伝)
現在、フジテレビで日中放送されている、話題の「朱蒙」(チュモン、全81話)。
韓国では最高視聴率52.67%、韓国歴代トップとなる35週連続トップの話題ドラマ。
日本でもその人気はこれまでの「韓流」を越えるともいわれています。
ドラマでのストーリーと、この朱蒙についての歴史的記述が日本の建国神話と似ていることから取り上げてみました。
■ドラマのストーリー
紀元前108年、漢の侵略により古朝鮮国が滅亡する。国を失った流民たちを率いて漢に抵抗する民族の英雄ヘモス(解慕漱)は漢軍との闘いで重傷を負い、河伯(ハベク)族の娘ユファ(柳花)に救われる。
やがてふたりは恋に落ち、ユファはヘモスの子を身ごもるが、それを知る間もなくヘモスは漢軍の矢に倒れてしまう。
愛する人を失った悲しみの中、ユファはヘモスの親友で扶余(プヨ)の太子クムワ(金蛙)に保護されて男児を出産し、チュモン(朱蒙)と名付ける。心ひそかにユファを思うクムワは彼女を側室に迎え、友の忘れ形見チュモンをわが子として育てることを誓う。
20年後、扶余の王となったクムワの下、甘やかされて育ったチュモンは、長兄テソ(帯素)や次男ヨンポに比べて意気地がなく、ユファやクムワを失望させてばかりいた。それにもかかわらず父からの寵愛を一身に受けるチュモンをクムワの正妻とふたりの兄は憎々しく思い、チュモン殺害の計略を企てていた。
ある日、チュモンは兄たちのわなで泥沼にはまり、偶然通りかかった大商団の君長の娘ソソノ(召西奴)に助けられる。口ばかりの情けないチュモンにあきれながら、ソソノはなぜか彼のことが心に残る。
その後、兄たちの策略でついに宮中を追放されてしまったチュモンは、実父ヘモスであるとも知らず偶然出会った盲目の男性から武芸を学び、強く生まれ変わっていく。
■朱蒙
東明聖王(とうめいせいおう、生年不詳〜紀元前19年頃)のこと。
高句麗の初代国王(在位:紀元前37年頃〜紀元前19年頃)で、東明王(とうめいおう)とも呼ばれる。
姓は「高」。諱(いみな)は「朱蒙」(しゅもう、ジュモン・チュモン)、または鄒牟(すうむ、チュム)、衆解(しゅうかい、ジュンヘ)とされる。
天帝の子を自称する解慕漱(かいぼそう、へ・モス)の子、または扶余の金蛙王(きんあおう、クムワワン)の庶子とされる。
扶余の7人の王子と対立し、卒本(遼寧省本渓市桓仁)に亡命して高句麗を建国し、初代の王となった。
東明聖王(朱蒙)の子供には百済を建国した「温祚王」がおり、温祚王の子孫が「光仁天皇」の大夫人であり平安京を開いた「桓武天皇」の母、「皇太夫人高野新笠」である。
■建国神話
「東明」を始祖にする「建国神話・始祖伝説」は、扶余・高句麗・百済に共通して見られるが、歴史的にみれば扶余建国神話の東明と高句麗始祖の朱蒙とは別の人物だと見当がつく。
しかしながら東明伝説も朱蒙伝説も筋書が構造的に共通するところが多く、その特徴は檀君神話と同じく、王の政治的権威の源泉を天に帰属させながら、農業生産を左右する水の神霊の権威を同時に主張することである。
高句麗の建国神話を『三国史記』に基づいて記述。
※[天の神の子]■建国の年
朱蒙は河伯(ハベク、水神)の娘である柳花(りゅうか、ユファ)を、天帝の子を自称する解慕漱(ヘモス)が孕ませて出来た子と言う。
扶余の金蛙王が柳花を屋敷の中に閉じ込めていると、日の光が柳花を照らし、柳花が身を引いて逃げても日の光がこれを追って照らし、このようにして柳花は身ごもり、やがて大きな卵を産んだ。(古代朝鮮では卵は神聖なものとされており、この話は朱蒙を神格化するためのものであると考えられる)
金蛙王はそれを気味が悪いとし、豚小屋などに捨てさせるが、豚がおびえて近かづかなかった。金蛙王はあらゆるところに捨てようとしたが、鳥が卵を抱いて守った。
終いには自らで壊そうとしたが硬くて壊せなかった。数日後卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。
※[金蛙王の7人の王子たちとの対立]
朱蒙の名の由来は、東扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。朱蒙は名のとおり弓の達人であった為に、7人の王子に睨まれた。
朱蒙が20歳になったとき烏伊・摩利・陜父の家臣ができた。
ある日その3人と一緒に狩に出かけた朱蒙は、金蛙王の7人の王子と出会ってしまった。
王子たちは1匹の鹿しか捕まえられなかったが、朱蒙は6匹の鹿を捕まえた。王子たちは落ち込んだが、もう一度狩りをすることになった。王子たちは朱蒙たちの獲物を奪い、朱蒙たちを木に縛って王宮に帰ってしまった。
朱蒙は木を引っこ抜き、縄を切って3人の家来たちを助け王宮に帰った。これを知った7人の王子たちは、父である金蛙王に讒言し朱蒙を馬小屋の番人にしてしまった。
母親である柳花は朱蒙を脱出させようと考え、良い馬を選ばせる事を決心した。朱蒙はある馬屋に行って幾多の馬に鞭を振り回し、その中で一番高く飛び上がった馬の舌に針をさしておいた。その馬はまともに食べることができなくなり、痩せて格好悪くなってしまった。金蛙王がその馬を朱蒙に与えた後、朱蒙は馬の舌からやっと針を抜き出し、三日間にわたってその馬に餌を食べさせた。
※[亡命と建国]
朱蒙は、烏伊・摩離・陜父らとともに旅に出た。
淹D水(鴨緑江の東北)まで来たときに橋がなく、追っ手に追いつかれるのを恐れて川に向かって
「私は天帝の子で河伯(水神)の外孫である。今日、逃走してきたが追っ手が迫ろうとしている。どうすればいいだろうか」と言った。
そうすると、魚や鼈(スッポン)が浮かんできて橋を作り、朱蒙たちは渡ることができた。朱蒙たちが渡り終わると魚たちの橋は解かれ、追っ手は河を渡れなかった。
さらに進んで卒本に至って都邑を決め、漢の孝元帝の建昭2年(西暦紀元前37年)、新羅祖の赫居世21年の甲申歳(紀元前37年)に国を建て高句麗とした。
即位直後より辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、沸流国松譲王の降参を受け、太白山(白頭山)東南の行人国を征伐し、紀元前28年には北沃沮を滅亡させた。
※[王位の継承]
紀元前19年5月、王子の類利(るいり、ユリ、後の瑠璃明王)がその母(礼氏)とともに扶余から逃れてきた。朱蒙はこのことを喜び、類利を太子として後に王位を受け継がせた。
同年9月に朱蒙は40歳で亡くなり、龍山に葬られて諡号を東明聖王とされた。
『三国史記』高句麗本紀に広開土王は東明聖王の12世孫とするが、好太王碑(広開土王碑)では好太王は鄒牟王の17世孫とする。このことから高句麗の建国となった甲申歳を紀元前277年にする説もある。
また、『三国史記』は新羅王室に連なる慶州金氏の金富軾が編纂したものであり、新羅中心主義的な記述とするために高句麗の建国年を新羅の建国よりも後にした、との見方もされている。
■扶余の建国伝説との比較
『後漢書』夫余伝に見られる建国神話は、以下の通り。
昔北方に索離国という国があり、王の婢が言われなく身籠ったため王はこの婢を殺そうとした。婢は「天空に神聖なる気が立ちこめ、私に降り注いだために身籠ったのです」と答えた。「扶余の始祖としての東明」の伝説は、古くは『論衡』吉験篇に見られる。
王はこの婢を軟禁し、後に男子が生まれた。王はこの子を豚に食べさせようとして豚小屋の前に置いたが、案に相違して豚は息を吹きかけてその子を守ろうとし、死ぬことがなかった。
王は今度は馬小屋に持っていったが、馬も同じようにその子を守ろうとした。王はこれは神意を表すものと思い、その母を許してその男子を東明と名づけた。
東明は成長して弓術に優れたので、王は東明の勇猛振りを恐れて殺そうと考えた。そこで東明は南方へ逃走し、掩D水に至った。
川に向かって東明が弓を射ると、魚や鼈が浮かんできて橋を作り、東明はこれに乗って渡り逃れることができた。そして夫余の地に至って王となった。
また、『三国志』夫余伝が『魏略』からの孫引きとして伝えており、これらの史書の中の高句麗伝では、始祖伝説は見られない。
『魏書』に至って扶余伝はなくなり、代わりに高句麗伝のなかで高句麗の始祖伝説が伝えられるようになった。
その伝説の骨子は、元来の東明伝説(扶余の建国神話)に、河伯(水神)の外孫であること、卵生であること、という要素が加わって、高句麗が扶余から出たこと、名を朱蒙とするというものである。
また、東明伝説において東明が弓術に優れていたとするのと呼応するように、「朱蒙」という語は「善射」を意味する、とも書かれる。
後に高麗の時代になって、『三国史記』(1145年撰上)では、高句麗の始祖を「諱が朱蒙、諡が東明聖王」とするようになり、高麗の詩人である李奎報(1168年-1241年)の叙事詩「東明王篇」(1194年)においても、高句麗の始祖を東明王と同一視するようになった。さらには『三国遺事』の時代になって民族的統合の象徴として檀君に系譜化され、「東明王である朱蒙は檀君の子である」とされるようになったと考えられている。
従来より、扶余の東明伝説と高句麗の朱蒙伝説との共通構造から、両者の民族的同一性が唱えられてきた。
しかしこれらの始祖伝説は単純に同一とはみなせず、高句麗の始祖伝説には南方系の卵生型説話の要素を含んでいることや、広開土王碑文や『魏書』高句麗伝には「東明」の表現が見られないことなどから、東明伝説の構成を元に高句麗独自の概念を踏まえた始祖伝説が形成され、後には『三国史記』には東明聖王と朱蒙とが同一視されたもの、と考えられている。
■陵墓
東明聖王の陵墓は平壌市の東方25Kmの地点に推定陵墓が存在し、東明王陵と称されている。元来は集安にあったものを、平壌遷都とともに遷されている。
1993年5月14日に金日成の支持により整備が行われ、敷地面積約220ha、王陵区域、定陵寺区域、陪墳区域が整備された。
陵墓は1辺32m、高さ11.5mであり、周囲には中門、祭祀堂、石像などが設けられている。玄室内部には29種の壁画が描かれている。
■古朝鮮・高句麗の大まかな流れと年表
約2,100年間、北の大地を支配してきた古朝鮮、朱蒙(チュモン)の歴史は古朝鮮が崩壊する瞬間から始まる。
天帝の息子、桓雄が弘益人間の理念の下で地上に降り立ち、熊女と結ばれ檀君を生み、その檀君が建国した古朝鮮。古朝鮮が滅び、流浪民が散り散りになった時に、ドラマ「朱蒙」(チュモン)は始まった。
分裂と崩壊、そして戦争…。しかし忘れられた時間は紀元前 108年からである。国を失った流浪民は漢武帝が設置した楽浪・臨屯・真番・玄菟の4つの郡を支配体制に置き近隣の部族国家は吸収された。
古朝鮮の昔の領土である扶余、沃沮などの部族国家が誕生したが、漢の鉄器軍の脅威の前では同じ民族である流浪民を攻撃することはできなかった。
古朝鮮の流浪民である若い将師、解慕漱(ヘモス)は軍を率いて漢と戦うが、鉄器騎馬軍にまたも敗れてしまう。
古朝鮮の滅亡から紀元前37年、朝鮮半島に初の民族近代国家が誕生するまでの歴史を描いたドラマ「朱蒙」を理解する上で、「鉄器文明」は重要なキーワードになる。
大帝国、古朝鮮の滅亡と民族分裂の裏側には、鳥瞰法を会得した漢の武器製造法があったのだった。言い換えれば、朱蒙と召西奴の高句麗建国の戦いは、鳥瞰法を探り出す涙ぐましい努力の歴史でもある。
紀元前2,333年 檀君王倹が朝鮮半島と遼東に大帝国を建国 紀元前450年 松花江の上流一帯に扶余が成立 紀元前108年 1年以上にわたる漢の侵攻で古朝鮮が滅亡 ※古朝鮮が漢の鉄器により崩壊する ※漢は古朝鮮の広大な領土に楽浪・臨屯・真番・玄菟の4つの郡(漢4郡)を置き、古朝鮮の流浪民を厳しく支配 (古朝鮮の流浪民・解慕漱は東扶余の王子・金蛙と共に、漢4郡の貧しい流浪民を救出し、扶余に定着させた) 紀元前58年 東扶余で朱蒙が誕生 紀元前37年 朱蒙が卒本で高句麗を建国 ※初の民族国家、高句麗が誕生 紀元前28年 高句麗が扶尉と北沃沮を併合 紀元前19年 朱蒙が死亡。琉璃王が即位 紀元前18年 召西奴と温祚が河南慰禮城に百済を建国 紀元前6年 召西奴が死亡 紀元前5年 百済が韓山に遷都 紀元3年 高句麗が卒本から国内城に遷都 紀元8年 百済が馬韓を滅ぼし併合 紀元14年 高句麗が梁貊を滅ぼし、漢の高句麗県を攻撃 紀元18年 百済が湯井城と古沙夫里城を築く ※高句麗の琉璃王が死亡 紀元22年 高句麗が扶余を攻撃し、帯素王を殺害 ※扶余が帯素王の弟を擁立し、曷思国を建国 紀元28年 百済の温祚王が死亡
2007/09/24(月)
「観月」お月見・十五夜
狭義には、太陰太陽暦(旧暦)の8月15日(十五夜)と9月13日(十三夜)の夜の月見のことをいいます。
旧暦の8月15日を「中秋」と呼ぶため、中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ、ちゅうじゅうのめいげつ)というようになりました。
また旧暦8月は、秋(7〜9月)のちょうど中頃なので「仲秋」と呼び、そのため「仲秋の名月」と表記する場合もあります。
古来より旧暦8月(グレゴリオ暦(新暦)では9月ごろ)は、観月に最も良い時節とされていました。
この夜は、月が見える場所などに祭壇を作り、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めたお月見料理、豊作を祈る満月法会などがあります。このことから「芋名月」ともいいます。
中国でも同様の習慣があり、「月餅」を作ってお供えします。
中国においては、清時代の記述として、「各家とも瓶花(いけばな)・線香・蝋燭を供え、空を望んで頂礼する。小児たちは男女とも月下に膜拝(もはい)し、燈前にて嬉戯(あそぶ)」と書かれています。
時代は降っていますが、江蘇地方の民間で行われていた中秋節のようすを知ることができます。
この風習が日本に伝わって、月見団子に変ったといわれています。
日本では、平安朝以降、宮中や貴族社会で観月の宴が盛んに催されてきたようで、その性格について、単なる内裏の行事ではなく、風流を尊ぶ季節の象徴として重んぜられた行事と受けとめられています。
それではなぜ、この時期の月に関心が集まったのでしょうか。
月は、その運動によって毎日ほぼ同じ割合で空を西から東へ移動します。ところが、この時間はかなりのばらつきがあり、秋分前後ではその約半分ほどの時間にまで縮小される日が生じます。
したがって、これに近い満月(つまり中秋の名月)の頃でも、月の出はかなり早めに推移しているケースが多く、それほど待たずに月を拝むことができるというわけです。
しかも月の出が早いばかりでなく、地平線からの月の高さも高過ぎず低過ぎず程よく夜空にかかるため、天候の影響さえ考えなければ観月に適した季節であることがよく分かります。
ただし、観月の慣習が一般庶民にまで広まったのは近世になってからのようで、江戸では隅田川の河口近くや深川、品川、高輪、駿河台あたりが月見の名所として知られていました。
韓国でもこの時期、月見の習慣があり、チュソク(秋夕)といってお勤めも休みになり、お正月やお盆に次ぐ郷里で親族と共にお祝いするお祭りになっています。
この時、ソンピョン(松餅)という各家庭の味でお菓子をつくります。
日本の民間で行われた十五夜行事は、古来の月を祭る信仰に外来の行事が習合したものと考えられますので、その内容には農耕儀礼的な要素がかなり残されています。十五夜といえば、多くはススキや花を飾り、さまざまな供えものをするのが全国的にも一般化した行事の形態です。
この供えものには、団子やまんじゅう、おはぎなどの作りもののほか、里芋、さつま芋、豆類、大根などの畑作物、さらに柿や栗、梨、りんごなどの果物があります。その他、水や酒、灯明なども含めて、これらは地域によってさまざまな組合せがあり、またその供え方ひとつとってみても、たいへん興味深い変化が見られます。特にススキと里芋をめぐっては、この行事が単なる「月見」ではなく、農耕儀礼としての性格を強く示唆する要素として注目されています。
中国でも地域によって家庭ごとに祭壇をつくり、月餅や芋の煮物、柿、栗、蓮根、菱などを供えたといわれ、これに類似した習俗は、他のアジア諸国にも見出すことができます。
十五夜にとってススキ(カヤ)は欠くことのできない植物ですが、これは秋の七草のひとつ(尾花)にもなっています。
かつては、屋根を葺く素材として大量に利用され、また炭焼きのさかんな地域では、炭俵を編む材料としても使われるなど、人びとの生活に有用な植物として位置づけられてきました。半栽培的なカヤトの維持・管理などは、その典型的な例といえるでしょう。
ススキには、本来的な役割として呪術力をもつとする見方がありますが、これは同じイネ科のチガヤなどにも認められます。沖縄や八重山地方の島々で行われる「シバサシ」は、「時間と空間を守る」ための魔除けと考えられています。
また、各地で行われる大祓式での「茅の輪」に関連した行事も、同じ理由にほかなりません。
ススキが農耕のさまざまな場面で利用されている事実は、国内ばかりでなく中国や台湾などでも多くの事例が知られており、いずれもススキに秘められた霊力に対する信仰がその基盤にあります。こうしたいくつもの流れが、互いに影響を及ぼしあいながら十五夜のススキへと連なっていることを考えれば、農耕儀礼としての位置づけが一段と鮮明になるでしょう。
十五夜に供えられるススキは適当な空きびんか花びんにさすのが一般的ですが、かつては地域によって「ハクチョウ」と呼ばれる注ぎ口の長い徳利が利用されていました。
ススキの本数は、まれに15本というところがあるものの、多くは5本(十三夜は3本)というのが一般的です。
ところで、地域によってはススキといっしょに季節の花を供えるところがあり、これは十五夜花とよばれています。
「芋名月」は十五夜の別称で、この行事に縁の深いサトイモ(里芋)に因んだ呼称です。
日本では、十五夜ばかりでなく正月にもサトイモを食べる慣習が各地にありますが、中国においても地域によってイモ(多くは里芋)は中秋の夜に欠かせない作物であったようです。また、同じ仲間であるタロイモは、東南アジアからポリネシアの島々にかけてたいへん重要な食糧でした。
日本では、「月見団子」のことばどおり、十五夜に団子を供えるのが一般的です。これは、丸い団子が望月を象っているとの伝承もありますが、各地の事例をみるとすべてが丸いというわけではありません。
たとえば、
* 静岡県の一部地域団子を平たくして、中央にくぼみを付けたもの
* 奈良県の一部地域団子を楕円状に平たくし、その上に餡をのせたもの
* 新潟県村上地方、愛知県名古屋地方、京都、大阪など団子の頭をとがらせたもの
など、さまざまな形があります。このうち、最後のものは里芋を表現した形を思わせます。
十五夜の供えものを、子どもたちが貰い歩くという伝承が各地にあります。早いところでは大正時代に途絶えたようですが、昭和の大戦後も細々と行われていた地域があります。
その内容も、家の人に見つからないように盗む場合もあれば、家の人が黙認するかたちで持って行く場合、さらには家の人に許可を得てから持って行く場合など、地域によりさまざまなパターンがみられます。
いずれにしても、このような習俗が地域の子どもたちによって支えられていたことは、ほぼ共通した要素となっています。
これに関連して、「十五夜の晩にはどこの畑の芋でも盗ってかまわない」とか「十五夜にはよその家の柿を盗んでもよい」などの伝承が、やはり各地にのこされています。おそらく、月を豊穣や生殖などの根源的な対象とみた古来の考え方に基づくものでしょう。
いずれにしても、このような「盗み」の行為がなぜ十五夜に行われるのか、今のところ明確な考え方は示されておりません。
関東地方の一都六県に山梨県を加えた地域でも「貰い歩き」の伝承は広範囲に分布しており、なかには興味深い習俗がみられます。
・十五夜の供えものを盗まれると「これはお月さまが食べたのだから」といって喜ぶ(茨城県)
・「井戸を貸してください」といって家人の注意をそらせている間に供えものを盗む(群馬県)
・供えものだけでなく、庭の柿を盗んでも罰にならない(埼玉県)
・十五夜の晩は、何を盗ってもよい(埼玉県)
・家人が茅と芋の葉を立てて子どもたちになんぞ(なぞなぞ)をかける。
「山じゃコイコイ、畑でイヤイヤなーんだ」といわれて、「茅の穂と芋の葉っぱ」と答えればよいが、もし間違えると供えものを貰うことができなかった(東京都)
十五夜に供えものを貰い歩くことは、社会的にもその地域で半ば公認された行為であっただけに、子どもたちにとっては待ち遠しい行事の一つとされていました。そこには、ごちそうをたくさん食べたいという願望と、いかにうまく供えものを盗むことができるかという遊び感覚の楽しさがあったといわれます。
また、盗まれる(あるいはさげてもらう)側では、供えものを失うことが翌年の豊作につながるという期待感をもつことができたのではないかと考えられます。事例は、それを具体的な思惑として表現したものでしょう。
供えものをこっそりと盗む方法としてもっとも一般的なのは、少し長めの竿(棒)を利用するやり方でした。
竿の先端には釘がとり付けられており、この竿を遠くから操りながら団子やおはぎ、柿などを突き刺して盗ったというわけです。ところが、地域によってはこうした貰い歩きの習俗が全く伝承されていないところがあり、調査記録にも「十五夜に供えたものは、家族でいただく」などの伝承を散見することができます。
貰い歩きという方法にいくつかのタイプが存在することは、そのルーツが「家人に知られないようにこっそりとさげる」行為であったと推測されます。これを単に盗みということばで表現していたことから、行事が次第に形骸化するなかで本来の意義が失われ、社会的観念としての盗みに対する考え方の変化なども加わり、地域によっては罪悪感を生じさせない方向へシフトしてきたものと思われます。その要因は、子どもたちではなく、おそらく大人社会の考え方の変化によるものでしょう。
これらの行為は、西洋の10月最終日の行われている「ハロウィン」ととても酷似しているお祭ではないでしょうか。
十三夜は日本独自の風習で、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を「豆名月」または「栗名月」とも呼ばれています。
十五夜と十三夜どちらかの月見しかしないのは、「片月見」と言って現在でも嫌われています。
中秋に続いて、旧暦9月13日に行われるのが十三夜です。十五夜と同じように、この夜の月が必ずしも十三夜月になるとは限りません。
十三夜の月は、望月前の少し欠けた月ですが、日本では十五夜の月と同じように丸い鏡として捉えられていた側面があります。その理由はよくわかりませんが、十三夜は日本で生まれた行事という見方が一般的です。
供えるものは十五夜に準ずるところが多いようですが、ススキの本数や団子の数で区別している事例が各地にあります。ところが、十三夜には豆を供えるという地域もあり、十五夜の「芋名月」に対する「豆名月」の意味がよく示されています。
なお、日本では「片月見はいけない」という伝承が各地にありますが、これは十五夜を行ったら必ず十三夜もしなければならないという戒めを語りえ伝えたものです。このように片月見が禁忌とみなされた背景には、生業と天候にかかわる信仰上の事情があったためでしょう。十五夜よりも十三夜のほうが晴天を期待できるという日本の気象パターンからすれば、2回の月見のうち、どちらか一方は必ず月を拝し、その年の収穫を祝うとともに翌年の豊作を祈願したいという意識がその根底にあったとしても不思議ではありません。「十五夜がだめなら十三夜がある」という切実な想いは、各地の伝承や俗信からもはっきりと窺うことができます。
秋や冬は空気が乾燥して月が鮮やかに見え、かつ秋は湿度も低く夜でもそれほど寒くないため、名月として鑑賞されるようになったのでしょう。
中国や日本で月を愛でるという習慣が古くからあり、日本では縄文時代ごろからあるといわれ平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で「観月の宴」や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠んだりお酒を飲んだりしようです。
ヨーロッパでは、満月は人の心をかき乱し・狂わせるものであったようで、月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するというのはその典型的な例で、とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったと記述があります。
毎年12ないしは13回の満月があるのに、なぜか特別扱いされる中秋の名月(「仲秋の名月」ではない)だけなのでしょうか・・・。
「八月十五日」と書いて「なかあき」と読む名字の方がいらっしゃるそうですが「なかあき=中秋」のことで昔から八月十五日の月を「中秋の名月」と呼んできました。
一年には「春夏秋冬」の四季がありますが、旧暦では3ヶ月毎に季節が変わり、「一・二・三月」は春、「四・五・六月」は夏・・・。そしてそれぞれの季節に属する月には「初・中(仲)・晩」の文字をつけて季節をさらに細分するのに使いました。たとえば旧暦4月は「初夏」となります。
この方式に当てはめると、「八月」は秋の真ん中で「中秋」。旧暦は太陰暦ですから日付はそのとき月齢によく対応しますから、月の半ばである15日はだいたいにおいて満月になります。
古くから日本には八月十五日に秋の澄んだ空に昇る満月を「中秋の名月」と呼んで鑑賞する風習がありました。
秋は収穫の時期でもありましたのでその年の収穫物を月に備える風習が各地に残っており、「芋名月」などとも呼ばれます。現在、月見団子を備えるのも、芋を備えた風習の変形です(団子も芋も「丸い」ということ)。
旧暦の各月は季節の中で登場する順番で、「孟・仲・季」+「季節の名前」で呼ばれることが有ります。
「七・八・九月」は秋に属しますので、秋は「仲秋」とも呼ばれます。このため「仲秋の名月」という言い方もあるのですが、私としては秋の真ん中で「中秋の名月」と考えておりますので、ここでは中秋の名月と書きました。
ちなみに、孟・仲・季は、中国で兄弟の順番を表すのに使うもの。長男・次男・三男(末っ子)と言ったところです。
暮らしと月とのかかわりでは、十五夜がもっとも身近な行事として親しまれてきました。
一般には中秋の名月を観賞する日と考えられていますが、日本では古くから望月(満月)を拝する信仰がありました。満月は豊饒のシンボルであり、月光には神霊が宿っているとも信じられてきたのです。かつては、望月を区切りとした暮らしのリズムがあり、今日「小正月」と称される一連の民俗行事は、その名残を示すものです。
中秋の名月にかかわる行事は、中国から伝来したものといわれていますが、当初は宮中での風流な観月が主体でした。いわゆる「月見」が一般庶民に広まるのは、近世以降のこととなります。ただし、これは都市部を中心とした状況で、農業を生業とする地域などでは、観月よりも農耕儀礼としての性格が強く表れています。望月に対する信仰が外来の行事と習合し、多分に日本的な十五夜行事の形成が図られてきたといえるのではないでしょうか。
ただし、「中秋の名月」というのは、単に中秋の月のことをさしていますので、この月が必ずしも満月(望)になるとは限りません。
現行暦における中秋は、早い年で9月上旬から、遅い年では10月までずれ込むことになってしまいました。したがって月の運行と直接的に関係しない行事は、次第に現行暦の日付で固定化されていきましたが、十五夜や月待行事に関してはそれができなかったわけです。
しかし、行事の本質が蔑ろになると、十五夜といえども新暦での固定化が起こり、単純な月遅れで9月15日に実施している地域も少なくありません。もちろん月齢は新暦にかかわりなく変化しますから、満月なき十五夜の祝いを行うことになります。このような現象は、都市化が進んだ地域ほど顕著にみられるようです。
名月というと陰暦8月15日の「十五夜」が最も有名なのですが、日本では古来もうひとつ陰暦9月13日の「十三夜」もまた美しい月であるとして重んじました。
吉田兼好の「徒然草」にも
八月十五日、九月十三日は婁宿なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶに良夜とす。
とあります。
この月は「のちの月」「女名月」などとも呼ばれ、八月十五夜の月だけを見て九月十三夜の月を見ないのは「片見月」といい、よくないことであるとされました。
万葉集や古今和歌集にも多くの歌仙、先聖たちの歌が残されています。
安倍仲麻呂
天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
希玄道元
春は花 夏ほほとぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
お月見は、「食欲の秋」、「文学の秋」を見事に完成させたお祭なのかもしれませんね。
2007/09/20(木)
お彼岸
「暑さ寒さも彼岸まで・・・。」といわれるように、お彼岸は季節のくぎりであります。
彼岸(ひがん)とは雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のことです。
また、この期間に行われる仏事(彼岸会)で最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「はしりくち」といいます。
元々は煩悩を脱した悟りの境地のことで、
煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」といいます。
彼岸会は『到彼岸』の意味とされ、すなわち現在、我々が住んでいるこの迷妄の世界は此岸(しがん)であり、
仏菩薩の悟りの世界である彼岸に渡ることを目的とするのが彼岸会の仏教的な意味です。
『到彼岸』は原語のサンスクリット語(梵語)では、パーラミーターと言います。
「彼岸」という言葉は、本来、春彼岸をさし、秋の彼岸は「秋彼岸」と区別していうのです。
【由来】
彼岸の仏事は、浄土思想に由来します。
春分・秋分の日は、太陽が真東から上がって真西に沈むことから、浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土)は、西方浄土という西方の遙か彼方にあると考えられています。
春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが「彼岸」の始まりです。
元々は中国から伝わったもので、心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったものですが、日本に伝来後いつの間にか法要を営み祖先を祀る行事へと変化しました。
日本で初めて彼岸会が行われたのが、日本後記によれば大同元年(延暦二十五年・西暦806年)二月に崇道天皇(早良親王)を慰めるために諸国分寺にて「七日金剛般若経を読まわしむ」というのが「彼岸会」の初出だとの記述されています。
春分・秋分の日に行われる彼岸会は、仏教的行事となる以前は日本人の農耕生活に深く根付いた行事であったと思われます。
彼岸の7日間の間に『日の伴』とか『日迎え日送り』をする行事は近畿地方一帯にあったとの記述がみえます。
これは、朝の日の出る東の方のお宮やお寺にお参りして日中は南の方のお宮やお寺に参り、農耕の安全と農作を祈り、これを節目として祖先の霊を祀るのです。
きわめて原始的な太陽崇拝ともいえますが、彼岸会が太陽と農耕と切り離せない関係にあると思われます。
彼岸には太陽が真西に沈み、その方向に向かって念仏すればかならず極楽に往生ができるとされています。
彼岸会は、春分の日を中日として前後3日間、計7日間にわたって営まれる法要ですが、仏教行事でありながらインドや中国には同じような行事が見当たりません。
彼岸会は、日本独特の祖霊崇拝と仏教法要であるといえます。
その始まりははっきりしたことが分からず、聖徳太子が企画構想したものであるという説もあります。
その理由の一つは、「彼岸」という言葉を「あの世」と解釈して、亡くなられた人々を供養するという意味から、お墓参りをするようになったと思われます。
【お彼岸の意味】
彼岸という言葉は、古代インド語のパーラミター(波羅蜜多)が語源で、意味は「彼の岸へ至る」ということです。煩悩や迷いに満ちたこの世を「此岸」というのに対し、悟りの世界・仏の世界を「彼岸」といいます。
悟りの世界に至るために、仏教には六波羅蜜の教えというのがあります。
此岸から彼岸へ、すなわち悟りの世界へと入るための六波羅密とは、
1.布施 財施(財を施すこと)・法施(真理を教えること)・無畏怖(恐怖を取り除き安心を与えること)の三種
2.持戒 戒律を守ること
3.忍辱 にんにく・苦しさに絶えること
4.精進 常に仏道を修するための努力をすること
5.禅定 心を安定させること
6.智慧 真理を見抜く力を身につけること
以上六つの徳目のことです。彼岸に行くことを願って、行いを慎むことがお彼岸法要の本来の意味です。
【お彼岸の期間】
お彼岸は、春3月と秋9月の年2回あります。
期間は、春分の日と秋分の日を中日(ちゅうにち)として前後3日間の7日間です。そして初日を「彼岸の入り」といい、最終日を「彼岸の明け」といいます。
【お彼岸の供養】
お彼岸には、できるだけ家族そろってお墓参りをします。お墓参りに特別の作法はありません。
墓石をきれいに洗い、周りも掃除して花や線香をお供えします。手桶から水をすくい、墓石の上からかけて合掌礼拝します。
また、家庭では仏壇を掃除し、花や季節のもの、ぼたもち、おはぎ等をお供えし、ご先祖の供養をします。
【お彼岸のお寺の行事】
お彼岸にはお寺で、「彼岸会」の法要が営まれます。お墓参りの折にはお寺の彼岸会にも参加してご供養をお願いします。
忙しくて時間がない場合でも、本堂のご本尊へのお参りとご住職への挨拶は欠かさないようにしましょう。
【彼岸と墓参りの習慣】
これまで書いてきたような様々な要因が混交し、江戸時代頃から彼岸に墓参りをすると言った風習が起こったと考えられています。
また、彼岸の時期は気候的にもよい時期であるため、墓参りにかこつけて野外への遊山をすると言った娯楽としての側面もあったと考えられます。
【供物】
彼岸会の時には、在家では仏壇を丁寧に掃除し、また墓参りするのが習慣であり団子をつくって供えることは日本中広く行われています。
日本で彼岸に供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだ10cm弱の菓子として作られるのが一般的です。
おはぎは、お彼岸の時どこの和菓子屋の店頭にも並ぶものですが、春に作るものをボタ餅、秋につくるものをおはぎと呼ぶという説もあります。
これらの名は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来する説がもっとも有力です。
【きな粉と胡麻】
1271年(文永8年)9月12日、日蓮聖人が鎌倉の龍ノ口(現在の日蓮宗御霊蹟龍口寺)の刑場へ引き立てられていったおり、急を聞いた桟敷の尼が、なにか最後のご供養をと考えたが、急であったため餡をつくる時間が無く、きな粉と胡麻をまぶして牡丹餅を作り日蓮聖人に献上したという。
その後、日蓮聖人は、難を免れ佐渡に流罪となった。
この故事にちなみ陰暦9月12日、日蓮宗では「御難の餅」という胡麻のぼたもちを作って供えています。
また「難除けぼたもち」「首つなぎぼたもち」などと呼ばれているようです。
【お彼岸と祝日】
「国民祝日に関する法律」によりますと、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡くなった人をしのぶ」と書かれています。
日本人は古来より、「遠くのご先祖様を神様と呼び、近いご先祖様を仏様と呼ぶ。」といった、まさに祖先崇拝の精神そのものであります。
【関連事項】
お彼岸疑問「春は牡丹・・・秋は萩・・・」
彼岸は春分の日と秋分の日の前3日と後3日の間の7日間(春・秋分も含み)。暦の上では雑節の中に入ります。
春分(秋分)の3日前の日を「彼岸の入り」と言い、3日後を「彼岸の明け」と言います。春分・秋分は、その中間に位置しますので、「彼岸の中日」と呼ばれます。
この彼岸は、仏教行事であるのですが、日本独特の行事です。
ちなみに、「彼岸」とだけ言った場合、これは春の彼岸を指します。秋の彼岸は「秋彼岸」または「後の彼岸」と言うのが本当です。
昔から、彼岸には先祖の霊を敬い墓参りをする風習があります。
また地方によって若干の違いはありますが、ぼた餅、おはぎ、団子、海苔巻き、いなり寿司などを仏壇に供え、家族でもこれを食すと言った風習も残っています。
ぼた餅は「牡丹餅」、おはぎは「御萩」。
昔、母に牡丹餅は牡丹の花の様に大きめに作り、御萩は萩の花の様に小振りに作るとの話を聞いたこともあります。
さらに花のイメージとして、ぼた餅はこしあんで、おはぎは粒あんで作るのだそうです。
宮中でお重に入れられ「はぎもち」と言われていたそうです。そこで女官の人達の女房言葉で「おはぎ」になりました。
牡丹餅も女房言葉(宮中言葉)で「おぼた」といったとも言ったらしいので、親しんだものの身分の違いと言うよりやはり、時期とまぶした餡の状態での違いでの呼び名の違いのような気がします。
昔の彼岸の日付(参考文献:「暦と日本人」(内田正男氏著))
現在は、春分・秋分の日を中日として前後3日の計7日間が彼岸の期間ですが、時代によってこの辺には違いがあります。
・五紀暦・大衍暦(〜861年)が使用されていた時代、現在のように定着した行事ではない「雑節」であったので、暦には記載されていません。
・宣明暦・貞享暦(862〜1754年)日本の中世時代で宣明暦の暦注における彼岸は、春分・秋分の日から数えて3日目(と言うことは2日後)が彼岸の入りとなりました。
蜻蛉日記(975年)・源氏物語(1010年頃)などにも「彼岸の入り」や「彼岸のはて」の記述が見えるので、そのころには一般的な行事になっていたようです。
宝暦暦・寛政暦(1755〜1843年) 「彼岸は昼夜等分にして、天地の気ひとしき時なり。前暦の注する所、これに違えり」彼岸はあくまでも仏教から出た雑節の考えであったのです。
本来の暦学とは何の関係もないものです。
将軍の意向で仕方なく改暦した暦が宝暦暦なのです。
一方、天保暦から、春分日・秋分日を中日としてその前3日・後3日の計7日間を彼岸と呼ぶようになりました。
現在の彼岸の期間はこの方式で決められています。
彼岸が暦に載るようになった理由 が「江戸の歳事風俗史」に「国史大事典」の引用がありました。
「昔(彼岸会の)談義説法は比叡山の坂本に限って行われていた。都鄙の人々はこの説法を聞きたいがために群れ集うのだが、その年の彼岸の日付がよくわからないので難儀するからと、比叡山からの要請があって、これを暦に載せるようになった。」
この時代の仏教や寺院は「生きた教え」だったようです。
春分(秋分)と彼岸の関係を見てみましょう。
春分の日・秋分の日はどんな日か
1.太陽が真東から昇り、真西に沈む日
2.昼と夜の長さが同じ日
3.お休みの日(祝日)
実は、多かれ少なかれ、上記の3つの内容は全て、彼岸と関係があります。
1.太陽が真東から昇り、真西に沈む日
真西に沈む夕日が浄土への道を示します。
先ほどからたびたび登場する涅槃の世界を、「西方浄土」と呼ぶことがあるとおり、阿弥陀仏の極楽浄土は「西」にあるとされています。
そのため、真西に太陽が沈む春分の日、秋分の日は夕日が極楽浄土への道しるべとなると考えられたのです。
この日沈む太陽が示す極楽浄土への道を「白道(びゃくどう)」といい、仏の示してくれたこの白道を信じて進めば必ず極楽浄土に至ると言う信仰が生まれました。
この信仰は、浄土思想が盛んになるのと軌を一にして広がって行き、現在に至っています。
2.昼と夜の長さが同じ日
仏教の説くところの「中道」の精神を昼夜を二分すると言う点で、春分の日・秋分の日があらわしていると考えたのです。
3.お休みの日(祝日)
春分、秋分は祝日。主旨はそれぞれ、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と「祖先をうやまい、無くなった人々をしのぶ」と法令に書かれています。
特に秋分の日の趣旨は、まさに現在の彼岸そのもの。
彼岸の中日を祝日にしたと言ってもよいようですね。
ちなみに、戦前は同じ日が「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」という祭日で、これは皇室内の「もと仏式行事」が神事化し祭日になったものです。
農耕と彼岸
春分と秋分は、農耕と言う観点から眺めると、
春分:種苗の時期
秋分:収穫の時期
にあたり、作物を育てる太陽と自分たちを守る祖先神への信仰と言う土着の信仰が仏教伝来以前からあり、春分には豊穣を祈り、秋分には収穫に感謝して供え物をしたことが原型と考えられます。
仏教が伝来すると、春分・秋分がそれぞれ彼岸の中日にあたることもあり、仏教の習俗と古来の風習が混交して現在の姿になったと思われます(ちなみに、サンスクリット語の[bhukta (飯)]+[mridu(柔らかい)]が「ぼた+もち」となって定着したのだと言われます(年中行事を「科学」する・永田久氏著))。
2007/09/13(木)
栗の渋皮煮
残暑が厳しい2007年9月。八百屋さんやスーパーでは新栗が店頭に出るようになりました。
暦の上ではもうすぐ「仲秋の名月」、新栗を使った美味しい渋皮煮の作り方を紹介いたします。
栗の渋皮煮は、2日〜3日ほどの手間と時間がかかりますが、
それだけにおいしく出来上がったときの感動もひとしおです。
秋の夜長に栗の皮などむいて気長に作ってみましょう。
じっくりと栗の渋皮に含まれる渋を抜くのがコツです。
【材料】
新栗=1kg(鬼皮のままでの栗、約1kgを使用)
重曹(炭酸水素ナトリウム)=大さじ山盛り2杯(2回に分けて使います。渋皮が堅い場合には、もう一杯追加)
シロップ[水=1リットル、砂糖(グラニュー糖)=500g]
【作り方】
[1]半日ほど水につけて柔らかくした栗の鬼皮をむきます。
※渋皮に傷をつけてしまうと煮ている間に栗が割れます。
※大きくて堅い繊維(筋)はあらかじめ取っておくとアクが出にくいです。。
[2]たっぷりの水に20分ほどつけます。
[3]鍋に栗が完全に浸るたっぷり目のきれいな水(1.5リットル程度)と、重曹を大さじ山盛1杯を入れて火にかけます。
[4]沸騰したら火を弱めてアクをすくいます。
[5]水が赤黒くなったら栗を水にとりだしてきれいに洗います。
[6]3・4・5を合計で3〜4回繰り返す。
※なるべく3・4・5の作業を多くした方がアクがよく抜けます。
※必ず水から煮始めます。お湯から煮はじめると重曹の効果がありません。
※出来たての熱い栗は空気に触れると簡単に割れてしまうので、煮汁を追い出す要領で冷水を注ぎアク汁を完全に流しきる冷却作業を行います。
[7]合計で3〜4回ゆでこぼしたら水にとって、色がでなくなるまで水を替えます。
[8]渋皮のかたい筋の部分を爪楊枝などでそっと取り除きます。
※大きい栗には太い筋が1本あるのでそれを取り除いてください。
[9]鍋に栗を戻して浸るくらいのきれいな水を入れ、いくつか穴を空けたアルミホイルを落としぶたにして火にかけます。
[10]弱火で煮汁がひたひたになるまで1時間半〜2時間程度煮て、途中で好みの甘さにするために砂糖を3回に分けて加えます。
※鍋に入れたまま冷ますと味がよくなじみます。
※前もってシロップ状にしたものを用いてもよいでしょう。
※目に見えない砂糖粒子を完全に溶かすための作業ですので決して煮立たせないでください。
【ワンポイント・アドバイス】
※砂糖はグラニュー糖にすると軽くて上品な味になります。
※重曹は製菓材料売場、あるいは薬局で手に入ります。
※冷たい状況下では糖液の浸透が進まないので、甘味が栗に染み込むまでは冷蔵庫に入れずに半日から一晩寝かしておきます。
※賞味期限は数日です。長期保存瓶詰めをオススメいたします。
※汁だけを煮詰めて消毒したびんにつめると保存がききます。
※ひとつずつアルミホイルに包んで冷凍すると、そのままお弁当に入れると自然解凍でちょうどよく食べられます。
型くずれせずに煮る方法はコトコトと時間をかけて煮込みますが、急ぐと割れてしまいます。
美味しく仕上げるのには手間暇が掛かるものなのです。
今年は特に栗の出来が良いそうなので是非おためしください。
2007/09/09(日)
重陽の節会
9月9日は、五節句の一つ「重陽(ちょうよう)の節会」であり、
旧暦では菊が咲く季節であることから『菊の節句』とも呼ばれています。
陰陽道の思想や中国の古典『易経』では奇数は陽の数であり、
陽の数の最大である『9』が重なる大変めでたい日とされたことから、
「重陽」と称されるようになりました。
邪気を払い長寿を願って菊の花を飾ったり、菊花酒を飲んで800歳もの長寿を得たという中国の菊慈童の謂れから菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わす祝宴を行った、とあります。
また重陽の前夜である9月8日には、菊に綿を覆う「菊の被綿(きせわた)」を行い、露を染ませ、身体をぬぐい長寿と健康といった無病息災を願うなどの習慣がありました。
しかし、現在では、上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)などの他の節句と比べてあまり知名度や認知度が低く行われていません。
古来の中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました。
この祭日は、中国古代の戦国時代(紀元前475年〜紀元前221年)にすでに風習として定着され、漢朝(紀元前206年〜紀元220年)頃から盛んになったとあります。
『重陽節』はまた敬老の日でもあり、中国各地でお年寄りを見舞うさまざまな行事が行われています。
重陽節を詠った有名な王維の漢詩があります。
九 月 九 日 憶 山 東 兄 弟 (九月九日に山東の兄弟を憶う)
独 在 異 郷 為 異 客 (独り異郷に在って異客と為り)
毎 逢 佳 節 倍 思 親 (毎も佳節に逢えば倍して親を思う)
遥 知 兄 弟 登 高 処 (遥かに知る兄弟の高きに登る処)
遍 挿 茱 萸 少 一 人 (遍く茱萸を挿せど一人を少なくを)
これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家でも盛んに行われ祝日として扱われたのです。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉の句に
草の戸や日暮れてくれし菊の酒
とあります。
その後、明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたといいますが、現在の私たちの日常生活とは縁遠くなってしまいました。
旧暦の9月9日は現在の10月頃にあたり、田畑の収穫が行われ、農山村や庶民の間では『栗の節句』とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝ったという記述もみえます。
さかんに行われていた重陽の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことが大きいのかもしれません。
とはいえ、特殊な行事として、
・上賀茂神社の重陽神事・烏相撲
・市比売神社の重陽の節句、菊の花と一年間愛用してきた南天の木の箸を奉納して無事を感謝し長寿を祈る
・法輪寺の重陽の節会、菊慈童の像に献花し、菊にちなんだ謡曲や能楽が奉納される
等の神事・法要が京都を中心に行われております。
地方によっては重陽の節会が姿を変えて残った行事があります。
重陽の節句は時期的には全ての作物の収穫が終わった時期の祭りでしたから、この日を「刈り上げ節句」などと呼び、収穫祭りの様相を呈しており、この祭りが土着した行事です。
有名なところは九州地方。
祭りのことを「くんち」と呼ぶことがありますが、これは「九日」のことであると言われます。
有名な「長崎くんち」「唐津くんち」も元は旧暦の9月9日に行われたものとの記述があります。
本来の宮中行事としては天皇以下百官が紫宸殿に集まり、「観菊の宴」として詩を詠んだり菊花酒を飲んだりしてけがれを祓い長寿を願いました。
また、菊の被綿(きせわた)といって、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でてたりもしたといい、枕草子や紫式部日記の中でもその風習をうかがうことができます。
(紫式部日記抜粋)
九日、菊の綿を、兵部のおもとの持て来て、「これ、殿の上の、とり分きていとよう、老拭ひ捨て給へと、のたまはせつる」とあれば、
菊の露わかゆばかりに袖ふれて花のあるじに千代はゆづらむ
とて、かへし奉らんとする程に、あなたに還りわたらせ給ひぬとあれば、ようなさにとどめつ。
と、宮中での重陽の行事の様子がうかがえます。
中国では、菊の花には不老長寿の薬としての信仰があり、鑑賞用としてより先に薬用として栽培されていたようです。
漢方でも薬効を認められている菊の花の種類は少なくありません。
皇室の紋章ともされている菊は、日本を代表する花といえますが、そのルーツは、薬用として中国から伝わったものもあるようです。
日本では食用の菊花もさかんに栽培されています。
日本で菊を食材とするようになったのは、室町時代からで、現在では青森県、秋田県、山形県などの生産地を中心に、さまざまな菊料理がつくられています。
2007/08/13(月)
盂蘭盆会と施餓鬼会の由来
(1)盂蘭盆会
盂蘭盆会(うらぼんえ、ullambana、)とは、安居(あご)の最後の日、 旧暦7月15日を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事です。
これは『盂蘭盆経 』(西晋、竺法護訳)『報恩奉盆経 』(東晋、失訳)などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説によります。
盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」とも音写された。「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の義であるといわれ、これが倒懸(さかさにかかる)の意で、近年、イランの言語で「霊魂」を意味するウルヴァン(urvan)が原語だとする説が出ているが、サンスクリット語の起源などからすれば、可能性が高い説であると言われています。
一般にはこの「盂蘭盆会」を、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などとよんで、今日も広く行なわれています。
この行事は本来インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたものであろうと考えられています。
現在、この「盂蘭盆会」のよりどころとしている『盂蘭盆経 』は、『父母恩重経』や『善悪因果経』などと共に、中国で成立した偽経であると考えられています。
したがって、本来的には安居の終った日に人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていき、それに、儒教の孝の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いと阿南尊者の抜苦・延命のための衆僧供養という伝説が付加されたのでありましょう。
(2)施餓鬼会
施餓鬼(せがき)法要は施食会(せじきえ)とも云い、多く盂蘭盆会に営まれる法要でありますが、その由来は全く違います。
曹洞宗においてこの盆月に行う法要を長い歴史の中で、盂蘭盆会施餓鬼法会(うらぼんえせがきほうえ)と称して定着していますが、『施す者と施される者の間に尊卑貴賤の差異』があったならば、厳に戒むるべきことであるとして、曹洞宗では「施餓鬼会」と言わずに「施食会」(せじきえ)と改めました。
その盂蘭盆会というのは目連尊者の孝道を説いた『仏説盂蘭盆経』(偽経)に由来し、施餓鬼は阿難尊者の救苦心『仏説救抜焔口陀羅尼経』によるといわれます。
孟蘭盆会と施餓鬼法要とは、その由来を異にするものですが、曹洞宗の盂蘭盆は、盂蘭盆会を含んだ施餓鬼供養が行なわれます。
そこには、盂蘭盆会施餓鬼法要はとは、お盆の時期のみに営まれる特定の法要であるのに対して、施餓鬼会は時期や期間などの特定性を必要としないのであります。
(3)盂蘭盆会の由来
釈尊の弟子で神通第一の目連尊者の目連尊者が父母の養育の恩に報いるために修行で得た神通力で亡き父母をさがすと、母は餓鬼趣にいて骨と皮ばかりにやせ衰えていた。
しかし、母が食べようとすると、それは、口のところで火に変わってしまい食べることが出来ません。
目連は悲嘆のあまり号泣し、哀れに思って、釈尊の処へおもむき、釈尊に実情を話して方法を問うと、釈尊が示されるところによると、「目連尊者の母が餓鬼趣に堕ちたのは過去世(生前)に僧侶や人々に施しをまったくしないという罪過があまりに深いからであり、それを救うには目連尊者の神通力でも如何ともしがたい、多くの比丘(出家者)の力によらなければならないということでした。
安居の最後の日にすべての比丘に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と答えた。
その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。
すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、それを見た目連尊者は水や食べ物を鉢に盛り母に差し出した。
そして、釈尊は「救済の法」を示し、その法によればすべて「憂苦を離れ罪障を消除」させることができると説示されました。
この「救済の法」というのがお施餓鬼会の起源であり、お盆はご先祖さまへの孝順供養の教えであるといえます。
(4)施餓鬼会の由来
施餓鬼会の由来については仏典に次のように示されます。
釈尊の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が夜、ひとり静かなところで坐禅していますと、焔口(えんく)という餓鬼が現われた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。
その餓鬼は阿難尊者に向って「三日の後、汝の命は尽きてわれと同じような餓鬼となるだろう」というのです。
阿難尊者はその言葉に驚き、その難から免れる法を問うと、その餓鬼は「それにはわれらの如く餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、三宝(仏・法・僧)を供養すれば汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができる」と・・・。
そこで阿難尊者はなんとか実行したいと思われたが、財産の無い自分にはどうすることもできず、釈尊に教えを乞うと釈尊は、「餓鬼のいうところは真実であるが恐れおののくことは無い。観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、この『加持飲食陀羅尼(かじおんじきだらに)』を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼並びにバラモン等は充分に空腹を満たされ、無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる」と陀羅尼を説き示され施餓鬼の法を教示せられた。
阿難尊者は釈尊の教えに随い施食せられたところ、焔口餓鬼の言うが如く寿命は延長し、菩提を証することができたといい、これが施餓鬼の起源となります。
施食会やお盆の棚経などでお唱えする『甘露門』と言われるお経や回向文には『存者は福楽にして寿窮まりなく、亡者は苦を離れて安養に生ぜんことを・・・。』とあります。
(5)中国での盆会
この盂蘭盆会の中国での起源は随分古く『仏祖統紀 』では、梁の武帝の大同4年(538年)に帝自ら同泰寺で盂蘭盆斎を設けたことが伝えられています。
『仏祖統紀』は南宋代の書物なので梁の武帝の時代とは、約700年の程の隔たりがあり、一次資料とは認め難いのです。
しかし、梁の武帝と同時代の宗懍が撰した『荊楚歳時記』には、7月15日の条に、僧侶および俗人たちが「盆」を営んで法要を行なうことを記し、『盂蘭盆経』の経文を引用していることから、すでに梁の時代には、疑経の『盂蘭盆経』が既に成立し、仏寺内では盂蘭盆会が行なわれていたことが確かめられるのです。
この行事が一般に広がったのは、仏教者以外の人々が旧暦7月15)を中元といって、先祖に供物を供え、灯籠に点火して祖先を祭る風習によってで、この両者が一つとなって、盂蘭盆の行事がいよいよ盛んになっていったと思われています。
南宋代になって、北宋の都である開封の繁栄したさまを記した『東京夢華録』にも、中元節に賑わう様が描写されているが、そこでは、「尊勝経」・「目連経」の印本が売られ、「目連救母」の劇が上演され好評を博すほか、一般庶民が郊外の墓に墓参に繰り出し、法要を行なうさまも描かれています。
(6)日本での盆会
日本では、推古天皇14年(606年)4月に、毎年、旧暦4月8日と旧暦7月15日に斎を設けるとあり、また斎明天皇の3年(657年)には、須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を設けたと記され、その5年7月15日には京内諸寺で『盂蘭盆経 』を講じ七世の父母を報謝させたと記録されています。
後に聖武天皇の天平5年7月(733年)には、大膳職に盂蘭盆供養させ、それ以後は宮中の恒例の仏事となって毎年7月14日 (旧暦)に開催し、孟蘭盆供養、盂蘭盆供となりました。
奈良、平安時代には、毎年、旧暦7月15日に公事として行なわれ、鎌倉時代からは「施餓鬼会」(せがきえ)をあわせて行なったとあります。
また、明治5年(1872年)7月に京都府は盂蘭盆会の習俗いっさいを風紀上よくないと停止を命じたこともあった。 主として現代日本におけるお盆の風習については地域性や古来からの慣習・風土の違いから全国的な統一はみられません。
東京などでは、太陽暦の7月にお盆の法要や棚経が行われますが、地方では一ヶ月送れた8月に行います。
また、かつては7月のお盆であった地域でも、お盆の連休が8月に定着したためにお盆の法要や特定の行事の都合上、8月に行うことも多くなりました。
(7)日本での施餓鬼会
施餓鬼会の疏(しょと読み、となえ文のこと)をみると、目連尊者は母を助けて苦を救う・・云々とありますが、盂蘭盆会に施餓鬼を営むのは目連尊者が餓鬼道におちた母を救った事に由来するものでもありましょう。
施餓鬼会におけるいろいろな供物なども、荘厳法(かざりつけ)も盂蘭盆会の意味が含まれているという訳です。
禅宗では特にこれを重視し、僧堂生活においてご飯をいただく時に、食台の隅に七粒のご飯をとる生飯(さぱ)ということをおこないます。
一年中毎日施餓鬼供養をしているといえるでしょう。
施餓鬼会は自分自身が長生きできますようにと願うだけではなく、この地上に生命を受けている動物植物をいただき、限りないご縁と多くのお陰を集めて尊い命を受けているのですから、自己の内心にある飢渇の心と行動を含め、一切衆生の餓鬼・精霊に施食し、衆生と共に仏道を成ずるよう功徳をめぐらす行事といえるのです。
2007/07/14(土)
お盆の供養
お盆の行事は、施食・施餓鬼と云う法要を営んだり、ご自宅でご自分のご先祖様だけではなく、供養が受けられない亡くなった多くの精霊に対して、僅かでも食物や飲み物を施すことで、ご先祖様だけではなく、生きている私たちにも幸運を約束してくれるのです。
このたびご紹介するお盆の行事のお作法は、宗教や宗派とは一切関係なく、誰にでも簡単に出来る一般的に言われているものをご紹介します。日本古来の培ってきた風土や習慣ももとにご提案させていただきます。
これをもとに各地域での慣習やそれぞれの宗派のお作法を加味されると、より良いお盆のご供養が出来るかと思われます。
お盆の期間は地方によって異なります。東京や横浜では7月に行うのに対して、月遅れのお盆・旧暦のお盆として8月に行われる場合がむしろ大勢だったりもします。そしてその時期にお盆休みがあります。
元々は、日本古来の伝統宗教である『祖霊信仰』(祖霊祭みたままつり)の風習と、仏教の盂蘭盆(うらぼん、サンスクリット語の「ウラバーナ」の音写)の儀式が融合したのが、現在の『お盆』なのです。
(1)盆棚=精霊棚(精霊棚は盆棚とも言われ、位牌を安置しお供えをする棚です)
精霊棚は、台の上に真菰(まこも)で編んだゴザを敷いて作ります。棚の奥中央に、先祖様たちのお位牌を安置します。
精霊棚を置く場所は、庭先・縁先・戸口・縁側・奥座敷・仏間・床の間・仏壇の脇などさまざまです。その地方の習慣に合わせて、決まった場所に作ります。
地方によっては、お墓に棚を作るところもあります。お寺などでは『施餓鬼棚』(せがきだな)と言われる特殊な霊壇を設置しているのを見たことがあると思います。
また宗派や地方によっては、『十三仏掛軸』・『阿弥陀三尊来迎図』・『大師入十三仏』・『法華曼荼羅』をお掛けする場合があります。
(2)盆棚のつくりかた
※一般的なつくりかたは、マコモのゴザを敷いた台の四隅に青竹を立て、その上部に縄を張って結界とします。
縄にはホウズキ、アワ、キキョウ、山ユリ、盆花(みそはぎ)などを吊るします。マコモの上には位牌、ローソク立て、香炉、花立て、お供え物などを置きます。 位牌の前には、なすの牛やきゅうりの馬を供えます。
これは先祖の霊が「きゅうりの馬」に乗って一刻も早くこの世に帰り、「なすの牛」に乗ってゆっくりあの世に戻って行くようにとの願いを込めたものといわれています。
そのほか、香・花・灯明・浄水・盛物・果物・野菜、それに、そうめん・餅・団子・故人の好きだった食べ物などを供えます。また、洗った米に、なす・きゅうりなどを賽(さい)の目に刻んだものを混ぜて、蓮の葉の上に盛り付けた、水の子と呼ばれるものも供えます。花も季節のものを生けて、枯らさず欠かさないようにします。
※白い2寸(6cm)程度の平たい皿二枚に15