05/11母の日 05/08家康公人生訓 05/05五月歳時記「端午の節句」 03/26占いと宗教 03/20お彼岸の由来 03/03三月歳時記「桃の節句」 02/22ある相談者の方に申し上げた事 02/15宮崎奕保禅師御遷化 02/03二月歳時記「節分」
平成19年の「大宮司言霊」
05/11母の日
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母の日を祝う行事の起源は、諸説あるなかで、古代のギリシャ時代にまでさかのぼります。
古代ギリシャでは春になると『レア(神々の母)』という女性の神様を称えるお祭りが行われていました。
日本では当初、昭和天皇の御后である香淳皇后(久邇宮良子女王)の御聖誕日にあたる3月6日に定めておりましたが、戦後、連合国軍の占領下においてアメリカと同様の5月第二日曜日に『母の日』が位置づけられたのです。
では、そのアメリカでの母の日とはどのような経緯があったのでしょうか。
20世紀初頭のアメリカで母親思いの女性が起こした行動が、現在の母の日が行われるようになりました。
アンナ ジャーヴィス(Anna M Jarvis)という女性が、自分を苦労して育ててくれた母親の命日に教会で「亡き母をしのぶ」という花言葉の白いカーネーションを追悼の意を表し、霊前にたくさんたむけ個人を偲んだそうです。
このことが多くの人々に大きな感動を与え、やがて、全米へと広がっていきました。
アンナや支援者たちは、『母に感謝の気持ちを捧げる休日』を作るよう、その声は議会への呼びかけられ、大統領にまで届き、5月の第2日曜を『母の日』と定め、国旗を掲げてお母さんに感謝の意を示すこととなったのです。
1914年のことです。
こうしたことから『母の日』が世界中へと広がっていくことになりました。
なぜ、日本に母の日が伝わったかというと、時代は西欧文化のロマン溢れる大正時代。
青山学院教授のアレクサンダー女史により、アメリカでの『母の日』が紹介され、キリスト教に関係する団体が中心になって『母に感謝の気持ちを捧げる休日』を広めてました。
西欧文化を積極的に取り入れていた日本帝国政府は、当初、前述の通り昭和に入ってから3月6日の香淳皇后の御誕生日を母の日としました。
なぜ、母の日には『赤いカーネーション』をおくるのでしょうか。
これは余談ですが、カーネーションはナデシコ科に属する植物です。
『立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花』と日本人は花と女性を強く結びつける奥ゆかしい文化を形成してきました。
その奥ゆかしく、凛とした日本女性と『大和撫子(やまとなでしこ)』と称することを聞いた方も多いと思います。
日本での『母の日』に香淳皇后の御聖誕日をあてたことを鑑みると、そこには「母として歳を重ねてもいつまでも奥ゆかしく、凛とした優しい日本女性でいてほしい。」という花を贈る子供側や妻として迎えた夫である男性からの気持ちが、カーネーションと云う花を用いて伝えようとしているのかもしれません。
アンナは亡き母の霊前に白いカーネションをたむけました。
これには、母性愛を意味する赤いカーネーションの花は、『母が健在なる人』という意味もあるのです。
母親が亡くなられた人は白いカーネーションの花を胸に飾る風習があり、それぞれ、母への感謝の意を表わしました。
しかし、業界や商業的目的から、業界内の提案や商業戦略から、次第に『母の日』に『カーネーションの花を贈る』から『花を贈る』という変遷を経て、母の日にカーネーションを贈ることが定番になり、そして現在ではカーネーションを贈るという型にはまらず、自分が贈りたいものや母親が望むものを贈るのが主流になってきているようです。
とはいえ、赤いカーネーションを見ると、なぜか母の日のどことなくホッとした懐かしい思い出を廻らす方も多いはずです。
母の日=カーネーションは、日本人の心から当分消えることはないのでしょうし、今一度、原点に戻った『母の日』も良いのではないでしょうか。
資料協力:宮内庁
05/08東照神君徳川家康公人生訓
人の一生は 重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ 怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり
慶長八年正月十五日
人はただ 身のほどを知れ
草の葉の 露の重きは 落つるもの
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戦国乱世がたけなわの天文11(1542)年12月26日、三河岡崎城主・松平広忠公の長男として、家康公は御誕生。
当時、松平家は東の今川義元公、西の織田信秀公と、三河で板ばさみの状態にあった。松平家滅亡の危機に瀕し、これを打開するために広忠公は、今川家の支援を受けて織田家と対決しようとしていた。
そのために家康公は、わずか6歳にして駿府の今川家に人質として、幼名「竹千代」と呼ばれていた幼少期から青年期にかけて12年の不遇な生活を余儀なくされたのである。このころ、織田信長公は14歳、豊臣秀吉公は12歳である。
奇しくも東海地方に生まれ合わせたこの三人が日本の戦乱を終焉させ、その仕上げをなしたのが徳川家康公であった。
1600年関ヶ原合戦で石田三成らを破り、朝廷より征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開き、その後「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼして幕府の基礎を固め、秀忠公に譲位して大御所となり駿府にて1616(元和2)年75歳で病没。
神号・贈正一位 太政大臣 東照大権現
戒名・贈正一位 太政大臣 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
日光東照宮の奥宮の家康公の眞廟に進む石段脇にはこの有名な『東照神君家康公人生訓』がございます。誰しも一度は聞いたことがある言葉ではないでしょうか。
「人生五十年」と言われたこの時代、二代将軍秀忠公は54歳、三代将軍家光公は48歳で薨去したことを考えると、
神君家康公は健康に気を遣い、心身の鍛錬に余念無く過ごされたことが伺えるのです。
神君家康公の人生においての名言が数多残されておりますが、殊に政治を司る方々や、経営に携る方々には根強い信頼があります。
その中でも、『武野燭談』の一説、
天下は天下の人々の天下であって、われ一人の天下と思ってはならぬ。
国もまた、一国の人々の国であって、われ一人の国ではない。
家もまた、一家の人々の家であって、われ一人の家でない。
何ごとも、われ一人では成り立たぬものと知れ。
とあり、謙遜を超越したところに神君家康公の哲学が垣間見ることができます。そこには、反省と感謝の一言ではないでしょうか。
風水には、誰にでもできる『帝王開運学』があることからも、天海大僧正が家康公のアドバイザーであったことが頷けます。
家康公が自らを律するように、「質素倹約に徹して質実剛健に慎むべし」と言うことは、長い歴史の中での自慢や高慢傲・慢うぬぼれの類や慢心に繋がるものは絶対に避ける、ということなのです。
驕りや高ぶりによって幸運の神様に見放された例は、歴史の中で無数の例えがあります。蘇我氏も平氏も信長公や秀吉公、現在に至ってはライブドア事件に関しても決して例外ではないのです。
では、私たちの日本の現在はどうでしょうか。
後期高齢者医療問題、道路特定財源や航空特定財源、年金問題。どれ一つとして解決しているものはありません。
長期政権を確立した前内閣がいかに国民に対して大きな負担を求めた政治にしてしまったことを、現段階になって気が付くときなのかもしれません。
これは余談でありますが、首相や国務大臣からはじまって、地方の公務員に至るまで政治に携っているものは、『時代と云う法廷の被告席に立たされている』という意識で政治や行政を行ってほしいものです。
家康公は、三才雑録の中に、
聞くことは天下の耳、見ることは天下の目、ことわりは天下の心。
この三つをとって是非を分析させ、我が身をつねって人の痛さを知り、政治をおこなうのが善政というものだ。
といわれております。
これは、政治の世界だけにとどまらず、私たちの身近な生活にもいえることではないでしょうか。
先日、GWということから、友人達と成田山新勝寺の『1070年記念大開帳』の参詣に行ったときにの話です。
当大社には成田山御分霊の不動明王様が鎮座されている関係から、平素の感謝の気持ちで『御礼』の参詣をいたしました。
帰宅の電車ので、夕刻ということもあって、行楽や成田という地域の状況も相俟って、海外からの帰国の方々で電車は混雑しておりました。
東京都内の電車では当たり前の光景なのですが、たまたま、某大学のライフセーバーチームが座席に座っている前に、私たちと同じく成田山への参詣を終えた老夫婦が来たのです。
私が個人的に思ったことではありますが、某ライフセーバーチームと明らかにわかるチームポロシャツを着用していて、人命救助が海だけで、普段の生活にも活かされていないことに憤りを感じたのです。
私自身もライフセーバーの選手としても指導者としても経験があり、そのような自己中心的なことは先輩から教わったことはなく、教え子に伝えたことがないだけに残念でなりませんでした。
この地域のライフセーバーチームの指導員の指導方法にも疑問をもちました。
しかし、このような事例は、あくまでも私たちが住む日本でごく当たり前の光景になっているのです。
教育現場を揺るがしている『モンスター・ペアレンツ』といわれる父兄が多くなっているようです。
当然のことながら、子供が初等科・中等科教育を受けている30〜40歳台の現在の世代は、その親がいわゆる『団塊の世代』であり、また彼等が若い時代に「自己中」などと言われてきた時代の人々が親となった訳ですから、当然の社会現象ではないでしょうか。
私も同世代になりますから、平素から見ていても目に余る光景は多く残念で仕方ありません。少なくとも私が20代後半の時期から、私たち親の世代への批判が報道等で囁かれて、『親の再教育』が問題とされてきたのです。
政府の統計によると、年収200万円未満世帯が前年度比で増加である、とのことです。
しかしながら商品先物として、原油価格の高騰、バイオ燃料交代とオーストラリアでの小麦収穫量の減少や、乳製品の生産調整の影響でバターやマーガリンが店頭で品薄状態など、我が国の食料自給も問題となっております。
戦後、日本もこの国の国民も、『勝ち組』としての傲慢が現在の政治を市場を形成したといっても良いでしょう。
家康公のお言葉をお借りするならば、競争原理は世の中の騒乱のもととなのです。
日本国憲法では「国民は何人といえども最低限の生活を営む権利を保障する」としたならば、今の日本国家の国策は、果たして善政なのか愚政なのか考えさせられます。
05/05端午の節句
今から約2300年前、中国の戦国時代「楚」(そ)の国、国王の側近だった屈原(くつげん、前340頃〜前278頃)という政治家の死を悲しんだ楚の国民達の行動から、中国の年中行事になったと言われています。
急に暑くなるこの時期は昔から病気にかかりやすく亡くなる人が多かったことから5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で、菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し 薬用酒や肉粽を飲食して、健康増進を祈願したのです。
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
当時の日本では季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄を避けるための行事が行われていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。
厄除けの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式(流鏑馬=やぶさめ)も行われるようになりました。
平安朝の頃から、子供たちはショウブで飾った紙のかぶとをつけ、石合戦などの遊びをしていたそうです。
室町時代から武家では、五月五日の端午の節句に、竹竿に布を張り「吹き流し」 を立ててましたが、江戸・元禄時代(1688〜1704)になって紙や木でつくった菖蒲人形を庭先に立てるようになったり、町人階級も紙で作った「鯉のぼり」を竿につけて高く掲げて対抗して楽しんでいたようです。
それがいつしか室内に飾るようになり、人形美術も発達して種類も増えました。
武家時代となると「菖蒲」が「尚武(しょうぶ)」と音が通ずるために盛んとなりました。
鯉はもともと威勢のいい魚で、昔から「鯉の滝上り(登竜門)」などと伝えられ、子供が元気に育つようにという親の願いが「鯉のぼり」にこめられているのです。
03/26占いと宗教
今日の夕方の報道番組で宗教に関する話題が2件ありました。
一つは、オウム真理教の被害者に対して12年もの歳月を経て、ようやく賠償額が確定したとのことです。
損害賠償の総額38億円に対して、実際に資産処分などをして用意できる金額は15億円。約40パーセントの率だそうです。
この数字が果たして、高いのか低いのかと言うまえにに、御の個人的な見解では、損害賠償総額38億円そのものが低いを感じます。
宗教法人格を得ている以上、無差別殺人や国家転覆を企てることは決してあってはならない所業です。
まだ裁判の行方が気になるところではありますが、この教団の行ったことは、被害者本人のみならず家族や友人知人に至るまで計り知れない間接的被害者が現在も生きなえながら心の病と闘っている現状を、継承した教団や分派した団体は重く受け止めて、その教団や団体の名が残っている限り、被害者本人はもとより、その子孫に至るまでに贖罪や償いをする義務があるとおもうのです。
個人や企業が財産を相続または、継承するにあたっては、プラスの財産もマイナスの財産も継承するのが一般的な常識となっています。であれば、総額に対して不足の場合は、継承した教団や分派した団体が責任感と使命感をもつのが道義でありましょう。
ましてや、人々を善なる道に導かなければならない宗教団体ならば、法的に位置づけられた損害賠償請求の総額以上の賠償を教団や団体のためではなく、これら被害者に十二分な贖罪を行って後に宗教活動を行っても遅くはないと思うのです。
このようなことから、責任転嫁や逃避するのであれば、団体を解散して、速やかに一般人として労働に励み、国家や行政に税金を支払うことを選択すべきでありましょう。
また、宗教法人を認可した行政庁にも、その認可したという責任は大なり小なりあるでしょうし免れないことはあきらかですから、国家・行政として損害賠償とは別の救済政策を出来うるかぎり行うべきなのです。
『国民の生命と財産を最低限保障する。』と憲法に明記されていることは歪めることがあってはならないのです。
ということは、国民の生命と財産を脅かした教団や宗教団体は、国家や行政が介入して解散させることは、憲法の信教の自由を侵害するに抵触するとはいえず、むしろこのような教団や宗教団体は認可した以上は解散や介入は国家や行政の義務と考えても良いでしょう。
2件目は霊感商法事件であります。
誰しも占いと聞くと、『高島易断総本部』をすぐに思いつくとおもいます。
その、高島易断のことで、時事通信社の記事がありましたので一部掲載いたします。
高島易断総本部に業務停止命令=数百万円の祈とう料−地獄に落ちると迫る・経産省 3月26日15時1分配信 時事通信この高島易断は、私の幼い頃から全国各地のホテルで鑑定会を行っていたことを記憶しています。この霊感商法に関しては、今に始まったことではないのですが、
「高島易断総本部」「高島易断崇鬼占相談本部」の名称で占いを行っている宗教法人「幸運乃光」(千葉県袖ケ浦市)が、「家族全員地獄に落ちる」などと、根拠のないことを言って数百万円の祈とう料を支払わせたのは、特定商取引法違反(不実告知など)に当たるとして、経済産業省は26日、28日から3カ月間の一部業務停止命令を出した。宗教法人に対する同命令は初めて。
同省によると、幸運乃光は易鑑定会を新聞の折り込み広告で宣伝し、ホテルの客室などで開催。2千円か3万円の鑑定をした上で、「息子さんの運気がどんどん下がっている。今すぐ神様に拝まないと、大変なことになる」などと告げ、祈とう料や仏具代として計146万〜934万円を支払わせていた。
私事で大変恐縮でありますが、一昨年、御が一部監修した『升入り大黒尊天』を販売していた業者さんに高島易断本部の幹部の方から、
「山田宮司が監修したといわれるお宅で販売している『升入り大黒天』のことですが、当、高島易断が商標票登録と特許をとっているので、販売を中止してくれ。販売を中止しなかったり、ホームページでの広告を即時に下ろさないと法的手段をとる。」と始めはメールが届いき、メールが届いた当日の夕方には、非常に荒い口調で脅かしかともとれる勢いで電話があったそうです。
また、その業者さんばかりか、仏像を製作していただいている業者さんにも同様のメールと電話があったそうなのです。
御としまして、一人でも多くの敬神の誠を尽くす方々に、大神様の神徳が届くことを願い、良質で安価な尊像をと思っていたのでありますが、宗教法人という旨味のもとで悪質な行いをしている一つの例であります。
ことに、この近年、神社関係者の会合でよく話題にのぼる事例をJCAST(http://www.j-cast.co.jp/)の記事にありましたので掲載させていただきます。
細木数子の参拝作法は「誤り」 全国の神社から苦情 2007/3/1このことについては、御は放送直後、放送局と同事務所に対して「間違った方法を放送するのは多くの人に伝統の根幹を揺るがし、宗教の腐敗を招く。公共の電波を私物化し、宗教を冒涜して、H宗教団体の宣伝活動を放送局は行っている。」と意見いたしたのです。
音をたてない拍手で神社のお参りをする女性が急に増えている。これは「葬儀」の際のやり方で間違った作法なんだそうである。占い師の細木数子さんがテレビの番組で指南したのを真に受けてしまったことが原因のようだ。日本の神社を総括する「神社本庁」には、全国の社総代、氏子から苦情が寄せられている。
細木流「音をたてない」は葬儀の際の作法。
各神社は、細木さんに抗議する予定はないという。
東京練馬・石神井の「氷川神社」のホームページのトップには2007年2月28日現在、こんな文章が綴られている。
「ところで最近、お参りをする時に音をたてないで拍手をする女性を時々見かける。どうも去年の年末にテレビで某占い師が『女性は拍手の音をたてないもの・・・』というようなことをしゃべったようなのである。これは大きな間違いである。音をたてない拍手は”忍び手”といって、葬儀の際の作法なのである」
「某占い師」というのは細木さんの事。実は、細木さんは06年末だけに限らず、「正しい神社へのお参りのし方」をずっと指南してきた。「男性と女性のお参りのやり方は異なる」とし、男性は「二礼、二拍手、合掌、一礼」で、女性は「二礼、合掌、一礼」という説明だ。つまり、女性は拍手をしないものだというわけだ。これを「細木信者」といわれる多くの女性ファンは信じたようだ。
ブログを検索すると、こんな文章が次から次に見つかる。
「昨夜、テレビで細木数子さんが神社への参拝の仕方を1礼合掌2礼と言っていたのを思い出してやってみると、友達も『女は手を叩いてはいけないんだよね』と言って同じ方法で参拝していた。(同じテレビ番組みていたんだ)」
「昨日の夜テレビで見た『細木数子の参拝作法』をばっちり習得して、神様仏様に失礼のないようお参り」
「夫婦の場合、奥さんは少し後ろに下がって並んで、旦那さんが2拍手する時に奥さんは拍手せずに手を合わせる。細木先生の番組での初詣の作法の通りに参拝しました」
「思い違いがあったようだが、抗議する気はありません」
一方で細木流に反論するブログもある。
「柏手は元々貴い方をお出迎えする時の最高の敬礼作法から生じたらしぃですので。細木数子の言うことを実行すると結果的に神様に不敬を働いてしまうと思います」
「細木さん、あの作法、『ズバリ間違ってますわよ』って内容でした」
「でたらめもいいところ。神社をばかにすんな!しかしメディアがしたたかなのは、最後にちゃんと『一部の神社では参拝の仕方が違う場合があります』ってテロップ出すんです。批判対策に」
「神社本庁」には細木さんの「指南」に対して全国の社総代、氏子から苦情が寄せられている。日本の神社では例外無く、男女共に拍手をするというのが習わしだからだ。「神社本庁」はJ-CASTニュースの取材に対し、「間違った参拝作法をテレビで公言している。(細木さんサイドに)指導してほしい、という苦情がかなりきています」
と打ち明ける。やはり、音を立てない拍手は“忍び手”で、葬儀の際の作法。男女共に「二礼、二拍手」なのだという。
しかし、不思議なことに、苦情が多いにも関わらず、細木さんへの「指導」には及び腰なのだ。神社本庁は、
「(細木さんに対し)特に今後何をするとかはありません。あの方の独自の理論なのでしょうし、人の信じていることを否定はできません」
という。
先の「氷川神社」でも、「誰(細木さん)でも思い違いがあり、誤解されたようだ。私どもは抗議する気はありませんし、参拝に来られた方が望めば、正しいやり方を教えていくということです」
「参拝作法が間違い」との指摘に細木さんは何と答えるのか。
J-CASTニュースは何度も「細木数子事務所」に連絡を取ったが、「担当者が不在で答えられない。いつ帰ってくるかわからない」 を繰り返すだけだった。
この占い師の間違いは、参拝方法にとどまらず、神棚の種類、仏壇での供花のあげかたまで、失礼な作法の連続でありました。
この、記事を読んで、意見したのが宗教人としては御一人だけだったのかと思うと、神社界においても、仏教諸宗派にも落胆せざるを得なく遺憾に思うのであります。
釈尊の最後の経典『佛遺教経』には、「宗教家は、決して占いを行って人々を惑わしてはならない。」と書いてあります。
御の母方の曾祖父で、当大社の前進を築いた御照大権現が生前、「人が常に正しいことを行って、真面目に生きているば、大神様はかならず見方して、幸せになれる。」と言っていたそうです。
御の口癖のように言うのですが、曾祖父御照大権現も多くの相談者や祈願者に「身共がおたくの願いは預かったから任せなさい。帰宅したらゆっくり体と心を休めなさい。」宗教とはこうしたやりとりではないでしょうか。
今は、こうした霊感商法だけではなく、有名な神社・仏閣からどんな小さな神社・仏閣にいたるまで祈祷・祈願料を納めてから昇殿や本堂にてお参りするところが多くなり、それでなくても敷居の高い場所を更に高くしてしまってます。
当大社は、『〜心の鎮守の森・開かれた神苑〜』の信念、御が眼の黒いうちは曲げることなく、日本総鎮守としてまいります。
この時勢、民間の企業が税金対策と脱税目的で宗教法人格を買収している話も風の噂でとどいております。この事件をきっかけに、再度、私たちの住む日本をしっかり国民の手で立て直すことが必要なのではないでしょうか。
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03/20お彼岸の由来
【お彼岸とは・・・】
「暑さ寒さも彼岸まで」と古来からいわれるようにお彼岸は季節の節目です。
春分・秋分の日が、太陽が真東から上がって真西に沈むことから、西方極楽浄土の信仰と結びついた日本独自の宗教行事なのです。
彼岸とは、その名の通り「彼の岸に渡る=岸の向こう」で、向こう側の岸とは、『悟りの世界』のことを言います。
サンスクリットのパーラミター(波羅蜜多)を音写した言葉と伝えられています。
私たち人間の現世は様々な苦悩や煩悩の世界(此岸)に満ちた世界で、日本の特に浄土信仰では一般に死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸、つまり『悟りの世界』に渡ることができると信じられていました。
また、既に彼岸の世界へ行った故人を供養するとともに、まだ辿り着けずにいる故人に早く向こうへ辿り着けるように供養するというのがこの彼岸の行事なのです。
歴史的には大同元年に早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるために全国の国分寺・国分尼寺の僧に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と『日本後紀』に記述されています。
この行事が最初とされ、平安時代以降、今日に至るまで変遷を経ながら続いています。
春分・秋分の時期にこの彼岸法要を行うのは、太陽が阿弥陀如来の浄土の方角である真西に沈むためであるともいわれています。
そこには、阿弥陀浄土を観じるのに最適ですし、迷っている人にとっては太陽の方角が進むべき道ということになるのでしょう。
春分・秋分の日に行われる彼岸会は、仏教的行事の以前は日本人の農耕生活に深く根付いた行事でもあったのでしょう。
仏教ではものごとの真ん中である『中道』の思想があります。
此岸から彼岸へ、すなわち悟りの世界へと入るための六波羅密には、
1.布施 財施といわれる財を施すこと、法施といわれる真理を教えること、・無畏怖といわれる恐怖を取り除き安心を与えることの三種の布施があります。
2.持戒 戒律(きまりやルール)を守ること。
3.忍辱 苦しさに耐えること。
4.精進 常に仏道を修するための努力を怠らないこと。
5.禅定 心を常に安定させること。
6.智慧 真理を見抜く力を身につけること。
以上六つの徳目のことを言います。
彼岸の7日間の間に『日の伴』とか『日迎え日送り』をする行事は近畿地方一帯にありましたが、現在は都市化の影響や儀式の簡略化によってほの風習は途絶えつつあります。
これは、朝の日の出る東方位に位置する神社や仏閣にお参りし、日中は南方位位置する神社や仏閣にお参りすることで、農耕作業の安全と豊作を祈り、の季節を一つの節目として祖先の霊を祀るものでした。
きわめて原始的な太陽崇拝ですが、彼岸会が太陽と農耕と切り離せない関係にあると思われます。
彼岸の中日には太陽が真西に沈みますから、浄土信仰ではその方向に向かって念仏すればかならず極楽に往生ができるとされています。
彼岸会は春分(秋分)の日を中日として前後3日間、計7日間にわたって営まれる法要ですが、仏教行事でありながら同じ仏教信仰国のインドや中国には同じような行事がありません。
彼岸会は日本独特の仏教法会であり、その始まりははっきりしたことが分からず聖徳太子が企画構想したものであるという説もあります。
彼岸の時には在家では仏壇を丁寧に掃除し、また墓参りするのが習慣であり団子をつくって供えることは日本中広く行われています。おはぎはお彼岸の時どこの和菓子屋の店頭にも並ぶものですが、春に作るものをボタ餅、秋につくるものをおはぎと呼びます。
なぜ、ぼた餅、おはぎと言うのかは、春は、牡丹の花が咲くこと、秋は一般的に彼岸花と言われる萩の花が咲くことから別々に称される説が一般的になりました。
当大社では、お彼岸の中日には、春分(秋分)祭・春季(秋分)皇霊祭に続いて、氏子・崇敬者の春季(秋分)祖霊祭を厳粛に行っております。
ひな祭りパン。クリックすると...、
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03/03三月の歳時記:桃の節句
【三月の歳時記】
三月三日は『桃の節句』です。
日本での「桃の節句」の起原は大変古く、平安時代にさかのぼります。
平安貴族は、それぞれ季節の節目に身の穢(けがれ)を祓う大切な行事を行いました。その中の一つ「上巳(じょうし)の祓い」が後に「桃の節句」となります。
平安時代、「上巳の祓い」の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。
この行事が、高貴な生まれの女の子の厄除けと健康祈願のお祝いとして、宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してゆきます。
室町時代になると、この節句は3月3日の「桃の節句」として定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。
その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。
ひな祭りは、庶民の間にも定着して行ったお祝いです。
ですから単なるお祭りではなく、お七夜やお宮参りと同じく、特に女の赤ちゃんのすこやかな成長を願う行事、いうなればお雛さまは、赤ちゃんに降りかかろうとする災厄を、代わりに引き受けてくれる災厄除けの守り神のようなものなのです。
気持ちの問題ですが、省略せずにきちんとお祝いしてあげてください。
とくに、女の赤ちゃんが生まれた初めての節句を『初節句』として、両祖父母から豪華な雛壇飾りをプレゼントを受けると、聡明で幸せな人生を送れるといわれています。
また、東南の『桃の花』を生けるたり、自宅の庭の東〜東南に桜の木を植栽すると幸運を運んでくれる風水術もあります。
02/22ある相談者の方に申し上げた事
(一部、掲載用に削除している箇所がございます)
大変、ご無沙汰を申し上げております。過日、御にいただいた案件につきましてご返答が遅れましたことをお詫び申し上げます。
まず、今のお仕事のことですが、もし、経済的な状況が許されるのでしたら、ご自分の体と心のことを第一優先に考えて、時間に縛られることのない環境を選択されて、新たなお仕事に就かれることが望ましいと考えます。
ただ、退職される時期と、次のお仕事に就くまでの順序やタイミングのタイムロスが多少ずれたり狂ったりすることはあるでしょうが、そこで焦ったり、苛立ったりせずに気長に、堅実に種蒔や行動をすることで比較的早い結果を生むことになると思います。
喩え短時間であっても、ご自分にお仕事をするという使命感と責任感を持つことで、次の案件である、更年期障害や精神的な病に無理なく克服できる方法や術を手に入れることが可能になります。
一切のお仕事をお辞めになって、使命感や責任感のないお仕事に就かれたとしても、また、趣味のみで日常を過ごされたとしても、体や心の病は良くなるとは到底思えません。むしろ、世の中の多くの人様を観ていると、退職された方々の多くは、仕事をされずに趣味に興じて平素を使命感や責任感のない生活をすごされている方が、大きな病気を得たり、持病を更に悪化されて寿命を縮められている方が大半です。
それに対して、都市とか地方とか関係なく一生現役でお仕事をされているかたは天命より授かった天寿よりもおおくの不老長寿をえております。
本題に入りますが、今年は、そういう点で、これまでの十年間の一区切りと考えて、僅かな期間であっても、心と体を休息されては良いかと考えます。これまでの、お仕事のことを始めとした煩わしいこと一切から離れることも必要な時期なのかもしれません。そうして、平素のご自分から一歩退いて客観的に且つ外側の風景として観察してみることも時には必要なのです。
思い切って心も体も『休息』させることで違うご自身が発見できるのはないかと思います。
次に現在のお仕事での環境ですが、その前に、作家の井上靖先生の随筆『わが一期一会』の中に「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」と書かれていることを記憶しています。
禅の言葉には『随所作主(随所に主となる)』とあります。
この二つの言葉にはとても共通の言葉があるのです。人間の世界は思い通りに事が運ばないからこそ、人生の醍醐味を感じるものではないでしょうか。どんな状況に置かれても、自分と言うものを常に主人公にすることもできるのです。
もし、現在のお仕事を辞められるのであれば、生活の維持に支障を来たさない程度の時間的に短い、パート等でも良いのでお仕事を選択されて、心と体を優先された日常を大切にされるのが一番の幸せなのではとも思います。その分、ご自分の時間に余裕が出来るのですから、介護士の公的研修会に参加してみたり、資格を取得する時間に充たせることも出来るでしょう。
また、比較的難易度はあがりますが、公共性が強く、社会的信用が大きく且つ、独立に有利な『行政書士』を勉強されて資格を取得することも可能です。行政書士や公認会計士・税理士などの事務所でパートとして働きながら勉強することも可能であると思います。女性ならではの資格として、インテリア関係の資格も年齢に関係なく取得可能でしょう。
さらに、財務経験を活かした資産運用のアドバイザーとしての資格も昔からみたら断然として多くなりましたから、それらの資格取得で独立もこれからの時代は面白いと思います。
もしもの事、困った時や、迷った時ほど、先入観や固定観念で判断したり決定しがちになります。そうすることで、かえって自分の気持ちを閉鎖的に追い込んだり正しい判断が出来なくなることが多くなるのではないでしょうか。そうした気持ちの時ほど、『風が吹いているから、旗が靡いているのではなくて、旗が派手に靡きたいと騒いでいるから、風が熾るんだな。』という、偏屈てきな発想も良いのではないでしょうか。
ご自身のネガティブな感情と前向きになりたい心情のアンビバレントが交差するでしょうが、厄年や還暦とは季節にも変わり目や節目があるように、私たち人間の変わり目や一つの節目を知らしてくれる、自然のシグナルなのです。
ということは、病気も同じ意味をなしているのですから、そういうときほど、心と体の休息が大切でありますが、それは、単に、行動や活動を一切停止するということに直結するのではないのです。
人間、若いときは力任せにもの事を遂行するのが世の習いです。年を重ねたならば、力ではなく、『経験』でもの事を無理なく行うのです。ということは、こうした節目や変わり目の時は、活動や行動を停止するのではなく、『振り返る』と考えると自然ではないでしょうか。
更にいうならば、病気のときは、天が与えたもうた、最高の休息の時間ではないでしょうか。
更年期障害は、女性だけの病気ではありません。また、ある一定の年齢の病気でもありません。更年期は男性にも発症しますし、年齢も二十代後半からと範囲も広いです。逆に更年期生涯を自覚しない人もいるもの現実にいます。人間、病気の数ほど円熟するものではないでしょうか。
他人様の痛みを理解できない人間は、自分が苦しいときには誰も助けてはくれないものです。そう考えると、この地球に六十億人の人が生活していますが、誰一人として、心も体も問題なく健康であったり、健常な人様は存在しないと言い切れるのです。学ぶのではなく真似ろ、悩むのではなく慣れろという言葉があります。
体や心の病と闘うとか克服するのではなく、それらの病とどう、向き合っていくなかではないでしょうか。
平常心とは、すべてにおいて、闘うとか克服するとかではなく、どう向き合っているかで相応の善処ができるのです。病気も自分の体の一部なのです。
自分の良い部分も悪い部分もすべて認めてあげて、それを真実として認めて受け入れることで、本当の意味で自分を大切に出来るのではないでしょうか。そこから、自分らしい本来の自分の人生が発見できると思います。今は焦らずに、目の前のことのみに執着しないで、毎日を一歩一歩を着実に歩みを進めてください。
末尾、拙い文章で説明不足も多いかと思いますが、御の大意をお汲み取りいただけたら幸甚に存じます。
至祷至祷
平成20年2月21日 飯綱大権現佛縁之日
御嶽大社開闢大宮司 徳風 拝
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02/15宮崎奕保禅師御遷化
曹洞宗大本山永平寺七十八世貫首 勅特賜黙照天眞禅師 宮崎奕保御遷化
曹洞宗大本山永平寺(福井県永平寺町)七十八世貫首・宮崎奕保禅師猊下が、一月五日午前五時四十三分に御入院先の札幌市・札幌医大病院で御遷化。享年百八(満百六)歳。
百歳を超えても永平寺で雲衲とともに坐禅を組むなど御壮健であった記憶があります。
関係者のお話では、昨年十二月に体調崩され御療養のため札幌の中央寺にお帰山なられたとのことでしたが、札幌医大スタッフや侍局の皆様の昼夜を問わずの手厚い看護の甲斐なく一月五日早朝、御遷化されたそうです。
明治三十四年、兵庫県加西市にて御誕生。
八歳で父と死別せられ、名古屋市安斎院、岐阜県竜泰寺、神戸市八王寺の各専門僧堂と京都市の大徳寺にて修行後、昭和四年に兵庫県加古川市の福田寺の住職に就任。
大本山永平寺では昭和二十一年から修行僧の教育指導にあたられるなど、単頭・後堂職、大本山總持寺伝光会講師などをお勤め。昭和五十一年には札幌市の中央寺住職に就任。
その後も大本山永平寺で監院、副貫首を歴任し、平成五年から大本山永平寺貫首にご就任。国内の宗教指導者では最高齢だった宮崎奕保禅師猊下は曹洞宗管長として四期・八年間おつとめ。
御の個人的な思い出としては、幼い雛僧の頃、禅師が副貫首時代に札幌中央寺にて米寿の賀に拝顔して、『謝賀延米寿』という漢詩と禅僧には大切な『龍天軸』を揮毫して戴きました。
御もその後は、進学や曹洞宗門に関係のないところに就職をしたこともあって、猊下にはご無沙汰の失礼を申し上げておりましたが、NHKにて、『104歳の禅師』が放映されて、御壮健さを拝して安心致しておりました。
ここに謹んで心より哀悼の意を表するものであります。
密葬の儀は来る十一日午前十時、大本山永平寺にて、また同時に中央寺でも挙行。密葬の喪主は、森嶺雄永平寺監院老師がお勤め。
宮崎奕保禅師猊下御遷化に伴い、第七十九世貫首に、妙厳寺(愛知県豊川市)住職 福山諦法副貫首猊下が新貫首にご就任。
故宮崎奕保師(曹洞宗大本山永平寺七十八世貫首)の本葬荼毘(だび)式は、4月5日午前9時、福井県永平寺町志比5の15大本山永平寺。喪主は森嶺雄永平寺監院老師。
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02/03二月の歳時記:節分
【二月の歳時記】
二月三日は節分です。
日本で初めての節分は、西暦706年に疫病が流行った(今で言うインフルエンザ?)ことによる、寒気送りが始まりです。
特に、節分の大切な行事に『追儺』と言われる鬼祓いがありますよ。
地方によっては柊の小枝に鰯の頭を付けて玄関の軒先に飾ったり、『恵方巻き』と言われる太巻きを、その年の恵方(平成20年の恵方は南と東南の南寄りの方角である丙方位の南南東です。)に向かって一本まんま『がぶり〜っ!』とかぶりつく行事も全国的に有名ですね。
また、現在の年越しそばの起源でもある『節分そば』もあります。
節分には、自分の心の中に棲む『鬼(日ごろの罪や咎、穢)』を祓う意味もあるのです。厄年に関係なく毎年厄祓いを授かる方も多いです。